概要
後醍醐天皇とは、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて在位した天皇、『逃げ上手の若君』にも登場し、北条時行、そして、足利尊氏に多大な影響を与える。
御簾から姿を見せず、謁見した足利尊氏にも鋭い視線を投げかける不気味な人物として描かれている。
・・・というか、姿が一切描かれず会話も常に御簾越しであり、その際も眼光がめっちゃ光っているという、足利尊氏とは違って本当の意味で怪人然としている存在である。
物語が始まる直前、鎌倉幕府の治政に不満をもち、「鎌倉幕府打倒の綸旨」を各地の武将に送り、最も功があった足利高氏を褒めたたえ、恩賞の一つとして己が諱「尊治」から「尊」を与え、「足利尊氏」を名乗らせる。
他、鎌倉幕府打倒に功のあった各地の武将に「領地の支配を認める綸旨」を与えることになるが、そのなかには小笠原貞宗に与えた「北条氏に味方した諏訪大社領の支配を認める綸旨」も含まれていた。
小笠原貞宗に与えた綸旨は、しかし、小笠原邸に忍び込んだ謎の盗賊に盗まれたばかりか、各地で所領争いが勃発、報告を受けた後醍醐天皇は
「めんどい」とさじを投げてしまった。
その満を持して建武の新政を開始するも、身内贔屓のやり方や新たな内裏のための増税に北条氏の時代のより悪いと市井の反感を買ってしまい、開始一年で既に負けフラグが立ち始める。
建武2年(1335年)、北条時行を擁して諏訪頼重らが蜂起し、足利直義が朝廷の治政をたしかとするために治めていた鎌倉府が陥落すると、後醍醐帝の許可を得ずに足利尊氏が反乱鎮圧に出陣、長きにわたる乱世の始まりとなってしまう。
一度は尊氏を撃退したものの、九州で盛り返した彼が京に迫るピンチに、楠木正成はいったん逃げる策を献上。
しかし無能な公家に諭され逃げることを拒否する暗愚さを見せる。
ここで正成の回想により、初めて素顔が登場。肖像画と同じく髭をたくわえた英雄然とした姿である。
いわゆる「南の木の夢」の逸話を思わせつつ夢を語る姿に、当時の正成は感激したものの、天下人となった今の帝は逆に弱くなったと正成は黙考。古来より偉大な英雄こそ逃げ上手であると最後の進言を行い、忠義を貫いて湊川にて討ち死にした。
これには後醍醐天皇もさすがに後悔。尊氏に京を追われながら、「今逃げるなら何故あの時逃げなかった。おお楠木よ…」と涙を流す。
その後は歴代天皇随一といわれる行動力を取り戻し、御簾を握り潰して逃亡。吉野に立てこもって南北朝の幕開けとなった。
しかし2年後には北畠顕家に対し、戦況も食糧事情も考えず、京へ上って尊氏を討てと無茶振りを行っており、暗愚さが完全に消えたわけではないようである。
関連タグ
逃げ上手の若君 足利高氏(逃げ上手の若君) 足利尊氏(逃げ上手の若君)