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踏めば助かるのにの編集履歴

2024/07/18 05:54:01 版

編集者:Mitake

編集内容:江戸時代の日本は命より名誉を重視することについて

概要を書けばいいのに

中学歴史の資料集『学び考える歴史』に登場したロボットが放った問題発言のひとつ。

意図としては、江戸時代隠れキリシタンたちが絵踏み(対象に十字架キリスト像マリア像などが描かれた板を踏ませ、キリスト教徒かどうかを見分けること)を踏めずに処刑されたエピソードに対する疑問。

確かに生き残ることだけを考えればその通りではあるのだが、比較的平和とはいえ江戸時代は現代よりも圧倒的に死が身近であり、また日々の暮らしも現代とは比較にならないくらい厳しかった時代である。そのような時代において、宗教は”生きる支え”であるとともに”死後のことまでも保証してくれる存在”(※本来の宗教はそういうもの)だったことは忘れてはいけない。

またそもそも、人には「自分の命よりも大切なもの」がある事は少なくない。家族のために身を投げ出して死ぬ人がいるのがその顕著な例である。このような発言はそう言った「命よりも大切なものがある」という考えを全否定すると取る事もできてしまう。

そういった行為を積極的に推奨するべきかはともかくとして、少なくとも「当時の弾圧されていたキリシタンの人々」にとって宗教がそういう存在であったことは誰にでも分かる事であり、それを全く無視したこの一文は明らかに問題である。

|゚-゚| 「仏教では駄目なの?」

補足すると、絵踏みで隠れキリシタン全員を摘発できたわけではなく、ロボットの言う通り「踏めば助かるのに」として処刑を免れた人も居た模様。

事実、信者の多かった長崎県では明治時代まで何度か摘発が行われたという記録があり、これは当時の信者たちが絵踏みを乗り越えていたことを示している。また、開国によって長崎に宣教師がやって来たことを知った信者たちがその宣教師のもとを訪れ、隠れ信者であることを告白したという逸話(1865年の「信徒発見」)もある。

|゚-゚| 「摘発のおそれがあるのに信仰を続けるの?」

プロテスタントなら助かったのに

絵踏みにそれなりの効果があったのは、日本に広まったキリスト教がカトリック派で、信仰にキリストや聖人の像・絵画を用いる伝統があったためである。より厳格な偶像崇拝禁止を掲げるプロテスタント派は聖書以外の現物を神聖視しないため、もしも隠れキリシタンたちがプロテスタントであれば普通に絵を踏んでいたことだろう。事実、出島のオランダ人やラナルド・マクドナルドのようなプロテスタントの漂流者は「馬鹿馬鹿しい」と絵を踏んだとされている。

|゚-゚| 「ならプロテスタントにすればいいのに」

…と言いたくなるが、当時のカトリックプロテスタント各派はお互いを悪魔呼ばわりする事も辞さないほどの不倶戴天の仇敵であり、当然その情報はカトリック派である隠れキリシタンにも伝わっていたと思われる。

作家の隆慶一郎がエッセイ集「時代小説の愉しみ」の中で、奥様の母校であるミッション系の学園に取材に赴いた際に「取材相手の『慈愛の化身の如き老シスター』にプロテスタントの事について訊ねるべく話を振ったら一瞬にして般若の形相でプロテスタントを悪魔呼ばわりし出して驚いた(要約)」との逸話が残っているくらいである。

つまるところ踏み絵の項では彫像や絵画はあくまでもイメージを共有するためのシンボルでしかないという立場であるため、絵に敬意を払わず踏みつけるのは信徒として正しい態度と解説されているがそれはより厳密なプロテスタントの立場であり、カトリックであった当時の隠れキリシタンはプロテスタントに鞍替えしてそのような立場を取ることもできなかったのである。

とは言え20世紀以降、キリスト教会はカトリックとプロテスタント、さらに正教会や国教会、カルヴァン派など、それぞれの宗派の差異にこだわらず、同じキリスト教の信者として一致させようとするエキュメニズム運動が巻き起こっており、現在はお互いの価値観を認め合う流れになりつつある。

逆に言えば、そういった運動が起こるまではそういった寛容さは無く、「信徒発見」の時点でも隠れキリシタン(分類上はカトリックに属する)が同じカトリックから「異端」と見做されてしまうくらいには教義が厳格であった。キリスト教の禁止が解かれて以降も「隠れキリシタン」の教えを守っている人がいるのは、単に先祖代々の教えを守りたかったからというのみならず、厳格な教義を説くカトリックへの「改宗」を拒絶したからというのも一因なのである。

やはり隠れキリシタン達は生まれた時代が悪かったと言える。

映画になってるのに

『沈黙』という長崎の隠れキリシタン弾圧を題材にした映画(遠藤周作氏の同名小説が原作)があり、まさにこの「踏めば助かるのに」を体現した内容となっている。

主人公のポルトガル宣教師二人は、日本に行った自分たちの師が棄教したという噂を聞き、その真偽を確かめるべく来日するが、不運にも弾圧を指揮していた奉行に捕まってしまう。宣教師を処刑するとむしろ信者たちの結束を促すと知っていた奉行は、それを逆手に取って「棄教すれば信者を助ける」と主人公に迫るが...

余談だが、宣教師や信者が逮捕されるシーンでの日本の役人の台詞は、

決してお主らが憎いわけではないぞ。こちらの考えにほんの少し歩み寄ってくれればよかろう

という言葉だけなら寛大に聞こえるが、実際は立場や力が上の者の無自覚な傲慢さが滲み出ているものになっている。

当時も「踏めば助かるのに」と思った人々は居ただろうが(それも弾圧する側にさえ)、あくまでもそれは、誰かを踏み躙る側や誰かが踏み躙られるのが他人事である人々の呑気なお気持ちに過ぎないのである。

|゚-゚| 「日本に来てまでして、確かめたかったの?」

江戸時代の日本ならではの事情

日本にも影響を与えている儒教または儒学の最も基本的な経典の一つである、『礼記』の『儒行』編に「可殺而不可辱也」((儒たる者)殺せるが辱められない)の一文があり、現代の中国語では「士可殺不可辱」の熟語として知られている。命に代えても貫き通さなければならない信念を持つ在り方を教えている。

また、河部真道による漫画『バンデット -偽伝太平記-』』での足利貞氏のセリフ「侍の本懐とはナメられたら殺す!」は、(作中の表現とは少々違うが)「侮辱されたら命に代えても相手を殺す」日本侍の名誉を重んじる生き方と暴力性を表現する言葉として、ネット上ではしばしば引用される。

昔の日本社会には命より名誉を重視する風潮があり、現代にも不当な扱いに「死をもって抗議する」事件が時々起きる。

つまり、命を惜しむ気持ちは普遍的とはいえ、このロボの言葉は「名誉や信仰より人命を重視する」思想から発する物で、必ず当時の日本社会に適するとは言えない。

また、関ヶ原の戦いの恨みを忘れないように江戸時代に通じて日々「チェスト関ヶ原」を叫ぶ九州の戦闘民族などと比べれば、信仰が侮辱されても報復などを考えていなかった隠れキリシタン達は平和的だったとも言える。

(宗教に対する侮辱は現代でも時々国際問題に発展する)

関連タグ なのかな?

ロボット(学び考える歴史)

キリシタン 踏み絵 殉教/殉教者

聖☆おにいさん:イエスが当時の隠れキリシタンに対する弾圧について言及するネタがあり、その時は「踏み絵を出されたら遠慮なく踏んで欲しい。足ふきマット扱いでも構わない」みたいなことを言っていた。

龍馬伝:登場人物の一人「お元」が隠れキリシタンなのだが、踏み絵を堂々と踏んで突破している。

生き恥:踏んで助かった場合の末路のひとつ。

死ねば助かるのに:語呂の似た言葉。意味合いはまったく違う。

外部リンクを参考にすればいいのに。

踏めば助かるのに… ニコニコ大百科

踏めば助かるのにの編集履歴

2024/07/18 05:54:01 版

編集者:Mitake

編集内容:江戸時代の日本は命より名誉を重視することについて