フランクリン・デラノ・ルーズベルト
ふらんくりんでらのるーずべると
生年没年 1882年1月30日~1945年4月12日
大統領任期(第32代) 1933年3月4日~1945年4月12日
概要
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国の弁護士、政治家。上院議員(ニューヨーク州選出)、ニューヨーク州知事を歴任。第32代大統領(4期、1933- 1945)。大統領任期途中で死亡。
大統領としては、ニューディール政策(大規模な国土開発や労働基準の改善による雇用作成)を行い、大恐慌により不景気にあえいでいたアメリカを立て直した(ただし、この効果は戦争発生による好景気と重なるため疑問視される面もある)。また、アメリカ国民及び企業に金の保有を禁止させる(国による金地金強制買い上げ)という行為も行った。
外交面においては、親中国、親ソ連であり、当初は第二次世界大戦に参戦しないことを公約としていたものの、当時中華民国と戦争を行っていた日本をたきつけるような行為をとり、アメリカを第二次世界大戦に巻き込み、結果アメリカの所有していた中国権益を喪失させ、アジアの軍事及び経済バランスを狂わせる一因となった(この行為の原因に関しては、「スターリン陰謀説」、「アメリカ軍事産業陰謀説」、「痴呆説」等の仮説が主として陰謀論の論者から提唱されている)。
詳細
生い立ち
ルーズベルトはオランダ系のニューヨーク州の実業家で大地主であったジェームスを父に、フランス・オランダ系の富裕なデラノ家の娘サラを母として、西暦1882年に生まれた(日本の明治15年)。デラノ家は清朝末期に、アヘン貿易によって巨富を築き、香港にも豪邸を所有していて、母サラは少女時代に香港に滞在していたことがあって中国に愛着を感じていた。父ジェームスの広壮な邸宅の本館には、中国から掠奪してきた美術品が飾られていたが、これらはデラノ家から受け継いだもので、ルーズベルトはこの邸宅を本宅とした。
大統領以後
対日政策
西暦1936年、ルーズベルト政権は日本に敵対する政策を初めて打ち出した。
ルーズベルト大統領は日本に対して根深い悪意を抱いており、中国の蒋介石政権を通して、アメリカに満州権益を与えようともしなかった日本を潰すことを図った。
翌年に日支事変が始まると、アメリカは中立国であったために、民間に「中国援助事務所」を設立させて、蒋介石が日本と敵対するための巨額の資金を提供した。
更にアメリカの航空兵が中国軍人として、アメリカが供給する戦闘機に中国空軍の青天白日のマークをつけて、日本兵と戦った。これは国際法の重大な違反であった。
中国はアメリカから、多くのキリスト教宣教師を受け入れ、同時にアメリカ国民も巨大な中国市場を夢見ていた。一方、日本はアメリカに媚びることなく、伝統文化を頑固に守って、キリスト教文明に同化しなかった。これが異質であった。
ルーズベルト大統領は幼少の頃から、母側の祖父の影響を受けて、中国に好意を抱いていた。ところが、ルーズベルトも側近たちも、中国の政治バランスや軍事状況についてまったく無知であった。
昭和6年に満洲事変が起こった時も、ルーズベルトは日本が中国を侵略したものとみなした。つづく日支事変、第二次上海事変についても同様で、ルーズベルト大統領は他のアメリカ国民と共に、満洲事変も盧溝橋事件も第二次上海事変も、日本が中国を計画的に侵略したものであると思い込んでいた。
ルーズベルトの側近は日本爆撃計画に夢中になった。ルーズベルト政権は対日禁輸を製造業者と輸出業者に要請し、日本の外交暗号すべてと日本海軍の暗号の一部は解読され、さらに昭和15年には日米通商航海条約を延長しないことが決定された。
1940年以降のルーズベルト政権の外交政策は「参戦外交」と呼ばれている。同時にアメリカの国防力を高めるために、平時におけるはじめての徴兵法案を通過させた。議会では「戦争行為だ」と批難された。
日独伊三国同盟が締結されると、ルーズベルトは破顔して喜んだとされる。これは日本が宣戦布告を行うと自動的に世界大戦に参戦することになるためである。
その翌月、海軍情報部極東課長のアーサー・マッコラムが、上司を通じて大統領に、日本をどのようにして対米戦争まで追い込めるか、提案書を提出した。ルーズベルト大統領はこれをただちに承認した。マッコラムは、キリスト教に改宗することを拒む日本に対して、強い嫌悪感を抱いていたのである。
1941年、マッコラムが大統領に対して、日本を苛立たせて対米戦争におびき寄せるために、アメリカの巡洋艦を使って、日本本土の了解を侵犯させるという提案を行い、これが検討された。もちろんこれは国際法に違反した。
ルーズベルト大統領は同年、日本本土爆撃作戦計画書を承認した。日本が南部仏印進駐を強行したするよりも10日も前のことで、真珠湾攻撃の5ヶ月前のことである。
このことはアメリカ国民を欺き、日本を騙し討ちにするものであったということであり、もし日本側がこの計画を察知していれば、真珠湾攻撃は自衛権の発動に基づいた反撃になるところであった。もしこの計画が実施されていれば、完全な奇襲となって、京浜地帯、大阪、京都、神戸が、大きな被害を蒙っていた。
同年11月、ハル国務長官は、ハリー・デクスター・ホワイトが起草したハル・ノートを日本の野村・来栖両大使に突如手交したが、これは従来の交渉経緯をまったく無視したもので、日本の政府と軍の誰もが、アメリカの最後通牒だと判断した。ルーズベルト政権は日本が受諾することを、はじめからまったく期待していなかった。戦後、ホワイトはソ連のスパイであることが判明した。
日本は万策尽きて対米開戦を決定した。国家の存亡をかけて必死になって立ち上がったが、本土を焦土として、280万人以上を犠牲にして敗れた。
戦時中、日本に対する激しい憎しみに沸き立ち、アメリカの世論では13パーセントが「日本民族を絶滅させる」ことを支持していた西暦1944年頃、ルーズベルト大統領はスミソニアン博物館の文化人類学者アールス・ヒルデリカをホワイトハウスに招いて、「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に交配させて、無害な、やる気がない民族につくり替える計画を立てたい」と語った。
また同じ年、イギリスのオリバー・リトルトン工業大臣が「日本はアメリカによって謀られて、真珠湾を攻撃した。アメリカが戦争に追い込まれたというのは、歴史を歪曲したものだ」と講演で語ったが、この発言はアメリカの強い要請によって、終戦まで公表を禁じられた。
ルーズベルトは大統領選を戦って4選を果たした。この時に僅差で敗れた共和党のトマス・デューイ候補は、ルーズベルトが事前に日本による真珠湾攻撃の情報をハワイの太平洋軍司令部に伝えなかったことを取り上げて攻撃しようとしたのを、利敵行為になるとしてルーズベルトに思いとどまらせられたのである。
しかしルーズベルトは、1945年4月、ジョージア州ウォームスプリングスの別荘で急死した。
戦後、ハーバート・フーバー元アメリカ大統領はマッカーサーと会って、ルーズベルトを「狂人」と呼び、「日本との戦争のすべてが、戦争を仕掛けたいという狂人の欲望だった」と語っている。