第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)期に、大日本帝国が戦争の名目として唱えた東アジア・東南アジアの地域共同体の将来像。
「八紘一宇」をスローガンとし、欧米によって植民地支配されたアジア諸国を日本が解放・独立させ、日本を中心とした秩序のもとでの平和共存共栄を目的としている。
日本は、東南アジア諸国へ資源確保のため進出をはかり、この地域に植民地を持っていた英 蘭との対立を深めるなか、浮上してきたビジョンであった。昭和15年(1940年)の外務大臣松岡洋右の発言で一般に知られるようになったが、日本の公式政策とされたのは、翌年のアメリカ・イギリスとの太平洋戦争勃発後である。
昭和18年(1943年)に東京で開催された日本とアジア各国による「大東亜会議」で「大東亜共同宣言」が採択された。
植民地の独立を名目にしながら大東亜共栄圏の構成国には十分な自主権は与えられず、各国は日本軍による傀儡国家でしかなかったとも言われるが、新たな統治者となった日本によって、旧統治者の白人や、商人や役人として現地民族を収奪していた中国系住民(華僑)の特権が剥奪され、現地民族の地位が向上したのは間違いない。一方で華僑に対しては、スパイの疑いで日本軍に処刑されたものもおり、そのため東南アジアの華人には反日意識が強い者も多い。
戦争終結で日本は敗戦し、大東亜共栄圏も崩壊。オランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い、各国は自立を遂げた。
今日、東アジア・東南アジア地域の共同体構想は、中曽根康弘、鳩山由紀夫ら一部の政治家により東アジア共同体として唱えられている。また、中華人民共和国が大国へと成長した今、中国を入れた地域共同体は中国中心にしかならないとして、「中国抜きの大東亜共栄圏」を構想する者もいる。