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織田信忠の編集履歴

2013/12/11 23:17:31 版

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織田信忠

おだのぶただ

弘治3年(1557年)~天正10年6月2日(1582年6月21日)。 安土桃山時代の武将・大名で、織田信長の長男。

概要

織田家当主・織田信長長男

母は側室・生駒吉乃。同じ母の兄弟に弟・信雄と妹・徳姫がいる。

後に信長の正室・帰蝶濃姫)の養子となる。

信長の嫡男として織田家の後継者となるはずだったが、1582年の本能寺の変で父とともに死亡。

享年26歳。

ちなみに幼名は「奇妙丸(きみょうまる)」。

名の由来は、生まれた信忠を見た信長が「なんか変な顔だ」と思ったからだとか。信長ひでえ。

人物像

大名として

父・信長の陰に隠れがちであるため、ボンクラのようなイメージを抱いている人が多い。

しかし、実際はなかなか政治力・統率力のすぐれた人物だったらしく、本能寺の変で死んでいなければ天下を取ったであろうとも言われている。実際、松永久秀武田勝頼といったそうそうたる相手を討ち果たしている。

また、26歳のとき本能寺の変で自害するが、その際に千~数百ともいわれる寡兵、それも多くが寝ていたままの状態でろくに装備もしていないような戦力で、準備万端かつ圧倒的兵力の明智勢を相手に互角以上ともいわれる戦いを繰り広げ、自身も数人の敵兵を斬っている。

ただし、本能寺の変の際の明智の包囲は充分ではなく、叔父の織田長益(後の有楽斎)などは無事に京を脱出している。信忠も脱出できる可能性はあったであろうが、「信長を討つような相手が脱出路を閉鎖していないわけがない。逃げて無様に死ぬくらいなら戦って死ぬ」と判断してしまう。その結果討ち死にしたことを見れば、信忠にとっても織田家にとっても、致命的な判断ミスだったといえる。

女性関係

信忠には生涯正室がいなかったとされる。

一度、武田家との同盟のために信玄の娘・松姫(当時7歳)と婚約したが、両家が敵対関係になったために婚約が解消されてしまう。

両人は決して出会うことはなかったが、文通による遠距離恋愛とも呼べる関係を築いていたとされ、江戸時代まで生きた松姫が生涯独身を通したことや、出家した際の名前を「信松院」としたことなども起因して、世の日本史ファンの妄想を駆り立たせている。

ただし、信忠は正室はいなかったが側室はいたらしく、事実子供が二人いる。

しかも、二人共キリシタン大名であったとか。

趣味

信忠はどうも能楽オタクだったらしく、自分でも演じるほど好きだったらしい。

しかも、それが原因で父・信長といい年こいて親子喧嘩したとか。でも馬をコレクションしてた信長に注意されても説得力無いよね……

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