概要
母は側室・生駒吉乃(但し異説もある)。同じ母の兄弟に弟・信雄と妹・徳姫がいる。
後に信長の正室・帰蝶(濃姫)の養子となる。通称は勘九郎、城介(秋田城介)。
信長の嫡男として織田家の後継者となるはずだったが、1582年の本能寺の変で父とともに死亡。享年26歳。
ちなみに幼名は「奇妙丸(きみょうまる)」。おそらく当時としても相当に変わった名付けだったと思われる。弟達の幼名もそんな系統の名前が多い。名の由来は、生まれたばかりの信忠を見た信長が「なんか変な顔だ」と思ったからだとか。信長ひでえ、DQNネームかよ。
(一応、「奇妙」には「奇しくも妙なる≒珍しくて素晴らしい」という意味もあるので、ぞんざいな感じしかしない弟達よりはまだいいのかもしれないが。)
実子は二人おり、しかも二人共キリシタン大名であったとか。
特に清洲会議にて家督相続を決定された長男・三法師(後の織田秀信)が有名であろう。余談だが彼も父と同じ26歳にて没した。
京都にある建勲神社には、実父である織田信長とともに神として祀られている。
人物像
大名として
父・信長の陰に隠れがちであるため、ボンクラのようなイメージを抱いている人が多く(歴史にあまり詳しくない人では特に)、徳川家康の長男・松平信康と比較されることもある。
しかし、実際はなかなか政治力・統率力のすぐれた人物だったらしく、本能寺の変で死亡しなければそのまま信長の後を継いで天下を取ったであろうとも言われている。浅井長政討伐での初陣を皮切りに、父親である信長とともに、織田軍の最重要部分を担っていた。別所長治・松永久秀・武田勝頼といった強敵を打ち倒したりもしている。既に1575年末に信忠は信長から一大名家としての織田家の家督(同時に織田家の本領といえる尾張・美濃の領国)と岐阜城を継承しており、信長自身は安土城の築城を開始し、以降は天下人としての政務に専念していた。
内政面では従兄弟の津田信澄(織田信勝の子)らとともに信長を支えた。佐久間信盛の失脚後は、尾張・美濃の大部分を支配し、武田勝頼の討伐後は直臣を含め東国をほぼ統轄するに至った。こうして信長を軍事・内政両面で支える後継者として年を追うごとに成長していったのである。武田討伐に成功した際に信長自身から「(織田家だけでなく)天下も譲る」との言葉を受けている。
また、26歳のとき本能寺の変で自害するが、その際に千~数百ともいわれる寡兵、それも多くが寝ていたままの状態でろくに装備もしていないような戦力で、準備万端かつ圧倒的兵力の明智勢を相手に互角以上ともいわれる戦いを繰り広げ、自身も数人の敵兵を斬っている。
また本能寺の変の際には、一部の人間が脱出していることから、判断ミスと言われることが多い。
しかし、当時の妙覚寺(信忠の宿所)は御所のすぐ近くに存在しており、当時事実上の天皇であった誠仁親王とその子・和仁親王(後の後陽成天皇)を避難させる必要もあった上に、そもそも逃亡ルートである南側は明智軍がひしめいており、かつ東側は光秀の本拠地である坂本の近くであることを考えると、一概にミスとは言えない。
今日の織田家は、織田信長を中心に、乱世の収束を早めた英傑を輩出したと名誉を与えられているが、もし彼が逃げた上でどこかで討死していたら、その名誉も陰ったと思われる。
かつて天皇と親王を置き去りにして逃げた結果、天皇・親王が敵に捕らわれてた挙句に、その汚名を返上できないまま若くして病に倒れて不遇の最期を遂げてしまったことで太平記で酷評された二代将軍のことを考えると、難しい選択ではあっただろう。
いずれにせよ、信長の後継者として織田家を率いる実力を持っていた大名であったと言えるだろう。戦術家として確かな手腕を持ち、信長家臣団からも支持されていたのである。
しかし、裏を返せば明智光秀にとっては絶対に殺さなくてはならぬ人間でもあった。信長を殺しても、彼が生き残ればいくらでも再起を図れたし、その器量も持ち合わせていたのだ。光秀が縁戚の細川家などにも何ら根回しをせずに、本能寺の変を起こした後になって味方になる事を乞うような無計画ぶりを露呈したのも、信長と信忠を同時に葬れる好機が偶発的に目の前に現出したので事を起こしてしまった、という背景が窺える。
当時、京都にいた信長や信忠の側近達も多くが二条御所に立て籠もった信忠のもとに馳せ参じて殉じており、結果的に信長、信忠と彼等に従って政権や織田家を運営していた側近集団がほぼまるごと消滅してしまった。彼の死後、織田家が豊臣秀吉に覇権を奪われたのも必然的な流れであった。その意味では日本の歴史に少なからぬ影響を与えた一人であったと言えるだろう。
尚、二条御所で自害した信忠の遺体は側近で義理の叔父(養母の濃姫の弟)でもあった斎藤利治等に隠された上、利治は二条御所に火を放ちつつ自らは明智軍と最後まで戦い討ち取られた。そのため、信忠の遺体を明智軍は見つけられず(焼死体になってしまったため、どの遺体が信忠か判らなくなってしまったと思われる)、信長ともども、その死の確たる証拠をあげられなかった。これもあって、信長・信忠父子生存の噂も飛び交っており、これを利用した秀吉は「信長様、信忠様ともに御無事で、近江に脱出されたとのことで、まずは目出度い限りです。私も直ぐに畿内に戻るつもりです」という内容の手紙を畿内の諸将にばらまき、光秀に与しないよう工作している。これも一因となって光秀は碌に味方が集まらないまま、秀吉との決戦を強いられることになる。
女性関係
信忠には生涯正室がいなかったとされる。
一度、武田家との同盟のために信玄の娘・松姫(当時7歳、信忠より4歳下)と婚約したが、両家が敵対関係になったために婚約が解消されてしまう。
両人は決して出会うことはなかったが、文通による遠距離恋愛とも呼べる関係を築いていたとされ、江戸時代まで生きた松姫が生涯独身を通したことや、出家した際の名前を「信松尼」としたことなども起因して、世の日本史ファンの妄想を駆り立たせている。前述するように信忠が亡くなるまで、彼の正室の座は空白のままであったためである。
しかし信忠は(後継者を作るために)側室がおり、事実、子供が二人いる(信忠本人も側室の子である。正室との間に子供が出来なかった、あるいは正室を娶る機会がなかった大名はじめとする上級武士やその嫡子が側室との間に子をもうけるのはありふれた事であった)。
ちなみに、織田秀信は信忠と松姫の間に生まれたという説もある(疑わしいが…)。
趣味
自らも演じるほどの能楽好きだったと言われている。
創作作品における信忠
戦国無双
武器:刀剣→大太刀(4Empires)
声:山田真一(2)、岡本寛志(3)、宮坂俊蔵(3Empires特殊台詞時)
金本涼輔(4)
「拙者もこれよりは、父上のため そして天下布武のために力を尽くす所存!」(2Empires:信忠出仕より)
「信長の子の肩書きだけで俺と対さば痛い目を見るぞ」(Empiresの特殊セリフ)
織田信長の嫡男。
口調は父・信長や弟の信雄と異なって普通の口調で喋る。
『4』では金色の模様がある兜を被った特殊モブとして主に織田の章に登場する。
4Empiresではエディットによる固有デザインが与えられた武将の1人として登場している。
武器も大太刀に変更された。
『100万人の戦国無双』では、西洋甲冑にマント・茶筅髷と、父・信長に共通した特徴を持った
青年の姿で登場。能楽に精通した逸話からか、頭には般若の面を着けている。
禍々しい衣装とは裏腹に、性格は父よりも叔母のお市に似た心優しい人物となっており、前述の松姫との文通なども取り上げられている。