自民党所属の元首相・国会議員。最後の“昭和時代の内閣総理大臣”である。
内務省退官後、昭和22年から平成13年までの長きにわたり衆議院議員をつとめ、運輸大臣や防衛庁長官、通産大臣などの要職を歴任する。昭和57年に内閣総理大臣に着任。
首相在任時
三次にわたって内閣を組織し、首相在任期間1806日(歴代六位)に及ぶ。在任中は「戦後政治の総決算」を掲げ、行政改革に傾倒し、国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・専売公社(現JTおよび塩事業センター)の三公社の民営化を実現した。その政治手法は従来の田中派的調整政治とは一線を画すトップダウン型のもので、強力なリーダーシップが高い支持につながった。
教育政策では、国際問題化した歴史教科書問題に中国の立場に配慮した「近隣諸国条項」を追加することで一応の決着をつけ、ゆとり教育の導入をはかった。
経済・外交政策は常にアメリカのレーガン政権と歩調を合わせたもので、「ヤス(中曽根康弘)はアメリカの使い走り」と揶揄されるほどだった。アメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、アメリカ製品の輸入促進を国民に訴える。アメリカの要望に応えた内需拡大のための過度の金融緩和、そして容積率の大幅緩和・リゾート法制定といった一連の政策は、狂乱地価と株価暴騰によるバブル景気を引き起こすことになった。
「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と嘘をついてまでゴリ押ししたせいで内閣瓦解につながった売上税は、後任の竹下登内閣で消費税として実現した。
人物像
核武装論者であった中曽根は、若手政治家時代、日本への原子力発電の導入に大きく貢献している。
政治的主張は典型的タカ派であるが、中華人民共和国との融和を重視し、中国の抗議に応じて靖国神社の参拝を中止。先の大戦についての歴史認識については「帝国主義による侵略戦争であった」という見解を見せている。
小泉純一郎によって政界引退(議員辞職)を勧告され、宮沢喜一共々、平成15年衆議院議員選挙への出馬を断念する。改憲、東アジア共同体の実現に情熱を燃やしていたが、これらは政治家として実現できなかった。
平成24年5月現在、存命最高齢の“元首相”である。長男は自民党所属参議院議員の中曽根弘文。