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リー・ハーヴェイ・オズワルドの編集履歴

2014-03-22 20:40:29 バージョン

リー・ハーヴェイ・オズワルド

りーはーゔぇいおずわるど

リー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald、別名Alek J.HidellあるいはO.H. Lee、1939年10月18日 - 1963年11月24日)は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされる人物。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕直後にジャック・ルビーによって暗殺される。

経歴

ニューオーリンズで生まれ育つ、父親はオズワルドが生まれる前に死亡しており、おじのチャールズ・マレット(ダッツという異名があった)に幼児期から思春期の生活を見てもらっていた。マレットはカルロス・マルセロの組織の人間でもあった。兄弟とともに母親に育てられ、成績は平均的。年少期はスパイドラマが好きだった。登校拒否の経験がある。兄が海兵隊に入隊した時、オズワルドは民間の航空部隊(CAP)に参加していた。この頃からロシアの新聞を購読し始める。17歳で海兵隊に入隊、公務の一環としてロシア語を専門的に勉強した。


海兵隊員

1957年から翌1958年、日本厚木基地(海軍厚木航空施設)に勤務していた際には航空管制官を務めた。その頃の月給は85ドル以下。軍病院によると性感染症を「職務の一環」で患っていた。この頃、同僚殺害の容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持および発射の罪状で軍法会議において有罪判決を受けている。 後述するソ連への亡命時、厚木基地勤務時代に得たロッキードU-2偵察機の機密情報をソ連当局に提供し、この情報が元で1960年5月1日にソビエト上空で偵察飛行を行っていた同型機が撃墜されたのではないかといわれている(U-2撃墜事件)。


「射撃の名手」説

オズワルドは海兵隊在籍中の1956年12月、200ヤード離れた50の目標に速射で48および49の命中を達成し「射撃の名手」とされた。しかし射撃術章には到達しなかった。そのため、オズワルドがライフルで、彼が証言した位置から移動するケネディを正確に素早く狙撃したという説に対し、一部の懐疑論者は疑問を呈している。

(ケネディ狙撃時にオズワルドが使用したとされる)イタリア製ライフル銃「カルカノM1938」を使用した、狙撃のエキスパートによる実験では成功例もあるが、オズワルドにそれが可能であったかどうかは判定できない。


ソ連への亡命


オズワルドは日本の厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年、ソ連に旅行に出かけ、そのまま亡命した。アメリカのスパイとして疑われ、追放されることを避けるために自殺を試みた。その後ソ連当局はオズワルドにミンスクでの生活を許可した。彼はテレビ工場で働き、ロシア人女性マリーナ(旧名 Nicholayevna Prusakova または Alexandrovna Medvedeva)と結婚した。

ソ連時代のオズワルドは自身をマルクス主義者であると主張し、駐モスクワアメリカ大使館にパスポートを返却してアメリカ市民権を放棄しようとした。この試みについては、ソ連から国家機密を盗み出すためのCIAの工作説や、その後の諜報活動のために「共産主義シンパ」を装うためであったといった説がある。

その後考えを変え、マリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国。入国許可が下りるまでに6ヶ月間を要したが、亡命し軍事機密を引き渡した疑いのある人物の帰国をアメリカ政府は許可した。仮想敵国の国民であった妻子の入国も許可された。

オズワルドは帰国後、ダラスのフォートワース地区に居住した。1963年4月10日、反共主義者として知られたエドウィン・ウォーカー将軍(Edwin Anderson Walker)を狙撃したとされる。オズワルドはニューオーリンズに居を移し、フィデル・カストロの支援団体「キューバ公平委員会(Fair Play for Cuba Committiee)に参加、ビラ配布の際に逮捕されている。1963年9月27日にはメキシコに赴き、ソ連大使館、キューバ大使館を訪問した。オズワルドがソ連大使館で面会した2人の大使館員(ヴァレリー・コスチコフ、パベル・ヤスコフ)はKGBの工作員であったとされる。この頃にはロシア人妻との結婚生活はほとんど破綻していた上、仕事もなく無一文だった(帰国した当初はコーヒー会社で働いていたが、2ヶ月で解雇されている)。

その後、デイヴィッド・フェリー、ガイ・バニスターといった反カストロ派の活動家と頻繁に会うようになる。しかし一方で、オズワルドはカストロ支持者として活動するなど矛盾した行動をとった。

1963年の春から夏にかけて、伯父のダッツ・マレットが運営するニューオーリンズの競馬賭博事業で掛け金徴収人として働いた。


暗殺と逮捕


ウォーレン委員会は、1963年11月22日午後12時32分、遊説中のジョン・F・ケネディ大統領をオズワルドが教科書倉庫ビル5階の窓から狙撃し、暗殺したと発表している。事件発生直後、2階の食堂で食事をしているところを同ビルの従業員に目撃されており、また巡回中の警察官にも確認されている。警官が管理人にオズワルドの事を尋ねると「ここで働いている」と答えた。その後、建物を出たオズワルドはJ・D・チピット巡査を職務質問中に殺害、その後テキサス劇場で逮捕されている。

オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。記者に顔の傷の事を問われると「取調べ中に警官に殴られた」と語っている。なお、ダラス警察のジェシー・カリー本部長は拘留中のインタビューで、取調中のオズワルドの様子について「非常に横柄な態度」「犯行は全面否認しているが、(自分は)彼が間違いなく犯人と信じている」とコメントしているが、拘留中の尋問調書などは全く残っていない。逮捕から2日後の11月24日午前11時20分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって拳銃で狙撃された。すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されたが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。


疑惑


暗殺事件前後に「オズワルド」を自称する者が複数目撃されたという証言や、狙撃時のオズワルドの所在について、教科書倉庫ビル2階の食堂で昼食を摂っていた姿を目撃した証言もあるなど、オズワルドは実行犯ではなく身代わりとして行動したと主張する論者が多数存在する。

マフィアとの関係が指摘されるルビーが何故容易に警察署に入ることができたのかという疑問や、オズワルドとルビーの間には共通の知人が何人もいたこと、2人が顔見知りであったという証言もあるなど、暗殺の実行犯はオズワルドではない、あるいは単独犯ではないという説は未だ根強い。しかしながらウォーレン委員会の正告によると、様々な物的証拠を検証するとオズワルド単独犯で説明がつくと結論されている。真実は2039年に解禁されるという。

彼の母親のマーゲリート・オズワルドはマルセロの運転手兼ボディーガードを務めたことのあるサム・テルミネという男や他にも暗黒街の男と親しく付き合っていたという。


関連タグ

アメリカ合衆国 ジョン・F・ケネディ 暗殺

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