福澤諭吉
ふくざわゆきち
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言うが実際はどうであろうか
生涯
天保5年(1835年)大坂(現大阪府大阪市)生まれ、豊前(大分県)中津藩の人。土方歳三とは同年の生まれで、誕生日は岩崎弥太郎と一日違い。
緒方洪庵に蘭学を学び、安政5年(西暦1858年)、江戸鉄砲洲(東京都中央区)で蘭学塾を開く。英学の重要性を痛感し、英学をも修め、幕府使節に随行し、3度欧米に渡る。
第二次長州征伐の時、尊王攘夷の長州を嫌っていた福澤は強硬に開戦を主張したが、長州征伐が実行されることになると当の福沢は「長州征伐という事の理非曲直はどうでもよろしい」と言いだし幕臣をやめてしまう。慶応4年(西暦1868年)、蘭学塾を慶応義塾と命名し(慶應義塾大学の前身)、以降、教育に力を注ぐようになった。
明治政府の申し出を再三断って在野の立場を貫き、明治12年には西周・加藤弘之らと東京学士会院(日本学士院の前身)を創設して初代会長となり、同15年には『時事新報』を創刊。
長年の飲酒と喫煙が祟り、明治34年(1901年)、脳溢血で没。明治を代表する啓蒙思想家であった。
人物
その一生は福沢が語りおろした『福翁自伝』で赤裸々に語られている。
下記のエピソードにみるように、良く言えば常識にとらわれず、行動力にあふれた性格だが、悪く言えば外道で自己中、無礼なキャラクターであった。同時代の人間からも、「ほらを福澤、嘘を諭吉」などと言われている。
適塾時代のエピソード
- 福澤は幼少の頃から酒を好んでいたが、塾長になってからからもほとんどを酒の代に使っていた。ある時禁酒しようと決心し、友人にそそのかされて気を紛らわすため、それまで嫌っていた煙草を始めたという。ところが酒はやめられず、その内煙草もやめられなくなり、結局酒も煙草ものむようになった。
- 夏はふんどしもせず生まれたままの姿。物干し台で酒が飲みたくそこにいた下女(塾の女性スタッフ)達を塾友が清々しい姿を見せて追っ払う。ある時、階下から呼ばれたので、下女が呼んだと思ってクールビズで出たら緒方洪庵先生の奥さんだった。
- 大坂の街中で塾の仲間と示し合わせた大喧嘩を始め、恐れをなした町人がバタバタと店じまいをすると、「江戸の町人と違って意気地がない」と大坂市民をdisった。
- 牛鍋屋に豚の解体を依頼され、土佐堀川に沈めて窒息死させ皆で解体。お礼に頭をもらい解剖実験材料にした(後で食べた)
- 鯛の味噌漬とだましてフグを食べさせ、スマン、ありゃウソだ。ホントはフグだ」といって、狼狽する友人の姿を嘲り笑った(さすがに、毒の部分は抜いておいたらしい)
- 友人同士で茶屋からの泥棒を楽しみ、盗んできた猪口や皿の数を競い合っていた。
主な著作
『西洋事情』『世界国尽』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』などがある。
特に有名な『学問のすゝめ』は300万部以上売れたとされる当時の驚異的ベストセラーであり「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」というフレーズは人権の平等を唱えたものとして有名。
有名だが、実際には「でも実際は身分や貧富に差があるよね、それは勉強したヤツが偉くなったり金持ちになったりするからだよ、だからみんなも勉強しようぜ!(意訳)」と続く、だから「学問のすゝめ」。
また、この本で福澤は「実学」のみを学問として、それ以外の「活用なき学問」は学んでも意味がないと言っているが『福翁自伝』では、「どうしたらば立身ができるだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に住むことができるだろうか……というようなことばかり心引かれて、あくせく勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う」とも言っている。
なお、論争を呼んだ『脱亜論』は、自身が創刊した日刊新聞『時事新報』に載った社説の一つであり、一般的には福澤が載せたとされ、福澤諭吉全集にも掲載されているが、新聞の社説の一つであるため、福澤自身が書いたのかは異論もある。