ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

西南戦争の編集履歴

2014-09-11 20:35:20 バージョン

西南戦争

せいなんせんそう

明治前期に起こった日本の内乱。日本で起こった最後の内戦と言われている。

概要

明治維新が成し遂げられた日本では不平士族の政府に対する不満が続出し、佐賀、萩、熊本などで武装蜂起が相次いだ。

なかでも薩摩(鹿児島)は明治以降も島津久光が君主として君臨し、明治新政府においても江戸幕藩体制の名残を残す一種の独立国家として存続しつづけていた。そのころ西郷隆盛は欧米を歴訪する岩倉具視大久保利通木戸孝允『岩倉使節団』の留守中、事実上の首相として征韓論を主張、反対するものはだれもいなかったが、明治6年(1873年)9月、『岩倉使節団』が欧米視察から帰国すると事態は一変した。岩倉、大久保、木戸らは征韓論に反対、明治政府は分裂の危機を迎えた。


10月14、15日の閣議で賛否は同数になったが、「意見が通らねば辞任する」という西郷の恫喝に屈した太政大臣三条実美は派遣を決定。実美は17日にストレスにより倒れ、意識不明となる。反対派の岩倉が太政大臣代理に就任、23日、明治天皇に派遣決定と派遣延期の両論を奏上するが、明治天皇は岩倉の意見を採用し派遣は無期延期、事実上の中止となった。

翌10月24日、征韓論賛成派5人の参議(西郷、後藤象二郎板垣退助江藤新平副島種臣)が辞表を提出して野に下り、桐野利秋をはじめとする征韓論支持派の軍人・官僚も相次いで辞任した。


西郷は薩摩出身の軍人・官僚を率いる形で故郷に帰国したが、前述のとおり薩摩は独立国家の体をなしており、一大軍閥とも言える歴戦の勇士が加わることで明治政府にとって大きな脅威となった。

事実、西郷を慕う多くは政府との戦いを主張したが、当の西郷に反逆の意思などはなく、西郷はこれを拒み続け、その一方で故郷に私学校を創設、国のために多くの青少年を育成する事業に乗り出していた。だが、その活動は政府の目には穏便なものとは映らず、不穏分子が結集しているのではないかとの疑心を抱かせてしまう。警察はひそかに多くの密偵を放った。

しかし、私学校生徒達と軍隊が衝突し、東京の警察の密偵が明らかになり、西郷の暗殺を狙っていたことが発覚したことから、ついに明治10年(1877年)に西郷は私学校生徒と士族達に押される形で挙兵、首都・東京を目指して進軍を始めた(政府が本当に西郷暗殺を企図していたかについては異説がある)。


西郷は桐野らに指揮をゆだねたが、戦術のまずさから熊本城の攻略に固執して失敗し、苦戦の間に政府軍が到着し撤退。なおも熊本県の田原坂での激戦で敗北すると、宮崎県内から鹿児島へ敗走。城山が陥落して西郷は負傷し、自刃して介錯を受けた。

この西郷の死によって西南戦争は終結。官軍・西郷軍共に6千名以上の戦死者を出して日本最後の内戦は幕を閉じた。


関連タグ

戦争 明治 西郷隆盛

翔ぶが如く(1990年大河ドラマ司馬遼太郎作)

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました