賤ヶ岳の戦いに至る経緯
山崎の戦いで主君の仇である明智光秀を討った羽柴秀吉は大きな発言力を手に入れた。とはいえ清洲会議での決定では、織田家の当主は三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。
その後、秀吉は柴田勝家とお市の方の再婚も斡旋する一方で、かつて
明智光秀が山崎の戦いで使用した山崎城、男山城を改築、信長の葬儀を主宰する、
京都奉行に自らの一門衆である浅野長政・杉原家次を据えるなど勢力固めに奔走。
この行動を柴田勝家は危険視し、前田利家を通じて、親秀吉派であった
堀秀政との交渉で咎めているが、秀吉は一向に解しなかった。
十一月には一様の和睦が結ばれるが、秀吉・勝家の対立は誰の目にも明らかであった。
十二月、秀吉はついに挙兵。勝家の息子・柴田勝豊を降伏させると、突如として美濃へ攻め入り、信孝と三法師のいる岐阜城を包囲した。
信孝は自身の宿老である斎藤利堯の急死、稲葉一鉄、森長可らの離反、
そして雪深い越前に居する柴田勝家の後援が不可能であった事で、
三法師を秀吉の手に渡してしまう。 これより前、秀吉は信孝と対立していた
異母兄の織田信雄を味方につけ、表面上はうまく取り繕って目的を遂行した。
翌、天正十一年(西暦1583年)正月、伊勢の滝川一益が信孝・勝家側について挙兵。親秀吉派だった岡本良勝、亀山城の関盛信といった諸将を破り、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、一益自身は伊勢長島城に入った。
これに呼応して柴田勝家も遂に挙兵、二月末の雪が残る近江路を進み、近江湖北へと進攻するのである。
三月十二日、秀吉は伊勢を離れ、近江国木ノ本に布陣。前田利家、佐久間盛政らを伴って出陣してきた柴田勝家は近江国柳ヶ瀬に着陣。丹羽長秀も秀吉陣営として敦賀に出陣し、戦況は膠着する。
本戦
四月十六日、織田信孝が再び挙兵。
此処に来て滝川一益の伊勢(織田信雄、蒲生氏郷が対峙)、柴田勝家の近江(羽柴秀吉が対峙)に美濃が戦線へと加わる事になり、秀吉は翌十七日、脇を突かれる前に美濃に向けて出陣。大垣城に入る。
この折、秀吉本隊が陣を移した事によって手薄になった近江国の柴田勝家本陣は主戦論が大勢を占め、佐久間盛政が四月十九日、中川清秀を攻めて是を討ち取る。更に岩崎山にて野営していた高山右近を攻めて敗走させ、接収した大岩山砦に居陣する。
この戦況を見て賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴は劣勢を悟り撤退を開始し、賤ヶ岳砦の落城も目の前のように思えた。が、此処で琵琶湖の水路から湖東部へと進攻していた丹羽長秀が海津に上陸を敢行、撤退中であった桑山重晴と鉢合わせになる形で合流し、丹羽長秀の二千名を加えた兵力が賤ヶ岳砦を強襲する。
加えて同日、大岩山砦の落城など情勢を耳にしていた秀吉本隊が大垣城からとって返し、大垣城を出た昼過ぎから五十キロ余りの行程を6時間ほどで踏破。佐久間盛政と交戦する。
此処に来て、柴田勝家陣営として参戦していた前田利家、金森長近が突如、無許可で戦線から撤退してしまう。明確な理由は今日以て不明であるが、是を受けて前田利家と対峙していた軍勢が秀吉軍に合流し、戦線は一気に押し遣られて佐久間盛政は敗走。勝家陣営の不利を悟って不破勝光と金森長近も撤退し、遂に総崩れした柴田勝家は本拠地である越前国北ノ庄へと撤退。しかし大勢は既に決しており北ノ庄城で柴田勝家は落ち延びるのを拒んだお市の方と共に天正十一年四月二十四日、自害する。こうして賤ヶ岳の戦いは柴田勝家の敗戦という形で幕を下ろすのである。
伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが五月には降伏開城し、五月末に賤ヶ岳の戦いは完全に終結する。
賤ヶ岳の戦い終戦後
織田信孝は兄、織田信雄の命で尾張国知多、野間大坊にて切腹を申しつけられる。
滝川一益は柴田勝家が没した後も抗戦を続け、半年近く所領の北伊勢で頑強に抵抗したが、最終的には降伏し、領土没収の上で京都にて剃髪を命じられ蟄居。丹羽長秀を頼って越前大野に隠居する。その後の滝川家では、滝川益重が秀吉に召し抱えられている。
柴田勝家の辞世の句は、
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
であったと言われている
戦いの影響
戦いは便宜上織田信雄、織田信孝両陣営によって行われ、当主となった三法師は
戦いに一切関与することができなかった。幼君でもあり、強力な直臣のいない三法師が、
その後「織田家当主」としての権力を衰退させたのは言うまでもなく、
この辺りから傀儡化が本格化する。
勝利者となった織田信雄は、滝川一益の領した伊勢長島などを接収。
勢力としては増大したが、戦争に功のあった羽柴秀吉を無下に扱うことも出来ず、
この後、織田家中枢の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。毛利輝元や徳川家康など
対外交渉は特に羽柴秀吉に任されることとなり、秀吉の独走体制をアシストする結果になった
羽柴秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上織田信雄を盛り立てたこともあって
多くの大権を手にすることが出来た。押しも押されぬ織田家筆頭重臣となり、柴田勝家らの脱落、
丹羽長秀、池田恒興も秀吉の行動に従うことが多くなってきた。秀吉はこの後、
前田利家などの敵対陣営や、堀秀政といった織田秀信に属している織田家家臣も
懐柔。結果的にのちの豊臣政権の雛形がここで誕生することになる。