概要
生没年 安元元年(1175年)~仁治元年(1240年)1月24日
大仏流北条氏の祖。鎌倉幕府初代執権・北条時政の子として生まれる。姉に源頼朝の正室・北条政子、兄に第2代執権・北条義時がいる。
承久元年(1191年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺されると、2代執権・北条義時は後任の将軍に天皇の皇子を迎えることを望んだが、朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇は鎌倉からの要求を留保、このことに業をにやした義時は1千騎の兵を弟・時房に預けて上洛させて朝廷に圧力をかけ、圧力に屈した朝廷はわずか2歳の九条頼経を鎌倉に下向させることで幕府と妥協した。
承久3年(1121年)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げるが、執権・義時の命により甥・泰時とともに軍勢を率いて上洛し朝廷軍を一蹴、首謀者の後鳥羽上皇捕らえられて隠岐に、子の土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡に配流されることとなった(承久の乱)。この後、京の治安の維持と朝廷を監視するために[六波羅探題]を設置、北方に義時の嫡男・泰時、南方に時房が就任した。
元仁元年(1224年)6月、執権・義時が急死し、跡を継いで執権職に就いた泰時の招聘を受け初代連署に就任する。
嘉禄元年(1225年)、九条頼経を後見していた姉・北条政子死去。
嘉禄2年(1226年)、4代将軍に九条頼経頼経が就任。
仁治元年(1240年)1月、死去。後任の連署には宝治元年(1247年)に義時の三男・重時が就くまで空席となった。