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北条時房の編集履歴

2015-11-29 12:35:34 バージョン

北条時房

ほうじょうときふさ

鎌倉幕府・初代連署。初代六波羅探題南方も務めた幕府要人。

概要

生没年 安元元年(1175年)~仁治元年(1240年)1月24日

 大仏流北条氏の祖。鎌倉幕府初代執権・北条時政の子として生まれる。姉に源頼朝の正室・北条政子、兄に第2代執権・北条義時がいる。


 承久元年(1191年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺されると、執権・北条義時は後任の将軍に天皇の皇子を迎えることを望んだが、朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇は鎌倉からの要求に難色を示し、このことに業をにやした義時は1千騎の兵を弟・時房に預けて上洛させて朝廷に圧力をかけ、圧力に屈した朝廷はわずか2歳の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を鎌倉に下向させることで幕府と妥協した。

 承久3年(1121年)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げるが、執権・義時の命により甥・泰時とともに軍勢を率いて上洛し朝廷軍を一蹴、首謀者の後鳥羽上皇は捕らえられて隠岐に、上皇の子の土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡に配流されることとなった(承久の乱)。この後、京の治安の維持と朝廷を監視するために六波羅探題を設置、北方には義時の嫡男・泰時、南方には時房が就任した。

 元仁元年(1224年)6月、執権・義時が急死し、跡を継いで執権職に就いた泰時の招聘を受け初代連署に就任する。

 嘉禄元年(1225年)、三寅を後見していた姉・北条政子が死去、三寅が8歳で元服する(九条頼経)。

 嘉禄2年(1226年)、4代将軍に九条頼経頼経が就任。


 仁治元年(1240年)1月、死去。後任の連署には宝治元年(1247年)に義時の三男・重時が就くまで空席となった。

 

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 執権 連署 北条義時 北条泰時

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