概要
生没年 安元元年(1175年)~仁治元年(1240年)1月24日
大仏流北条氏の祖。初名・時連。鎌倉幕府初代執権・北条時政の三男として生まれる。姉に源頼朝の正室・北条政子、兄に第2代執権・北条義時がいる。
文治5年(1189年)4月、三浦義連を烏帽子親として元服、「五郎時連」を名乗る。
正治元年(1199年)正月、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が死去し、嫡男・頼家が源氏の家督を継いだが、頼家が将軍職に就いたのは建仁2年(1202年)7月であった。このころ、時連は頼家の側近として蹴鞠・所領に御供として近侍している。
建仁2年(1202年)6月、将軍・源頼家の命により、名を「時房」と改める。このころまで官職に就くことなく、頼家の個人的な近臣として仕える。
建仁3年(1203年)3月、将軍・源頼家が失脚(公的には死去と発表)し、頼家の弟・実朝が源氏の家督と将軍職を同時に継ぐ。
元久元年(1204年)3月、執権・北条義時が従五位下・相模守に任官、また、7月、伊豆修善寺において前将軍・源頼家が刺客に襲われ殺害される。
元久2年(1205年)8月、従五位下・遠江守に任官、同年9月には駿河守に任官。また、承元4年(1210年)には武蔵守にも任官しており、北条氏が他の御家人の上に立ち、源氏一門に準じる地位に昇ったことを世に知らしめた。
承久元年(1219年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺されると、執権・北条義時は後任の将軍に天皇の皇子を迎えることを望んだが、朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇は鎌倉からの要求に難色を示し、このことに業をにやした義時は1千騎の兵を弟・時房に預けて上洛させて朝廷に圧力をかけ、圧力に屈した朝廷はわずか2歳の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を鎌倉に下向させることで幕府と妥協した。
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げるが、執権・義時の命により甥・泰時とともに軍勢を率いて上洛し朝廷軍を一蹴、首謀者の後鳥羽上皇は捕らえられて隠岐に、上皇の子の土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡に配流されることとなった(承久の乱)。この後、京の治安の維持と朝廷を監視するために六波羅探題を設置、北方には義時の嫡男・泰時、南方には時房が就任した。
元仁元年(1224年)6月、執権・義時が急死し、義時の嫡男・泰時が執権に就任、時房は姉・政子より軍営の御後見として武家のことを執行することを命じられるが、政子死去までの約一年間、時房は京都を活動の舞台としている。(『明月記』)
嘉禄元年(1225年)、三寅を後見していた姉・北条政子が死去、三寅が8歳で元服したことにより(九条頼経)、同年7月、時房は正式に連署に就任する。
嘉禄2年(1226年)、4代将軍に九条頼経頼経が就任。
寛喜3年(1231年)12月、正五位下、 文暦元年(1234年)正月、従四位下に昇叙、嘉禎2年(1236年)2月に修理権大夫を兼任、翌3年正月、従四位上、11月に相模守を辞任し、暦仁元年(1238年)閏2月、将軍・九条頼経の上洛に従軍、正四位下に叙任された。
仁治元年(1240年)1月、死去。後任の連署には宝治元年(1247年)に義時の三男・重時が就くまで空席となった。
連署・北条時房
鎌倉幕府の重要な儀式の一つに垸飯(おうばん)がある。元日より数日にわたり、北条氏以下の有力御家人が将軍に太刀・名馬・弓矢とともに食事を奉る儀式である。特に元日から3日までの間の垸飯は、鎌倉幕府内の序列を意味した。義時の死後、嘉禄2年(1226年)、安貞元年(1227年)の二年間を泰時がつとめた以外、一貫して時房がつとめている。