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北条時氏の編集履歴2016/02/25 06:53:48 版
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北条時氏

ほうじょうときうじ

鎌倉幕府・第3代執権・北条泰時の嫡男。父に代わって六波羅探題北方を務めた。

概要

生没年 建仁3年(1203年)~寛喜2年(1230年)6月18日

 鎌倉幕府・第3代執権北条泰時を父に生まれる。弟に北条時実、妻は第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の母となった安達景盛の娘(松下禅尼)である。

承久の乱

 承久元年(1219年)1月、鎌倉幕府・第3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺される事件が起き、幕府は次の将軍に天皇の皇子を迎えることを朝廷に要請するも、ときの最高権力者・後鳥羽上皇はこれに難色を示した。このことに業をにやした2代執権北条義時は弟・北条時房に1千騎を預けて上洛させ、折衝の末、九条家よりわずか2歳の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を迎えることで妥協した。

 承久3年(1221年)5月、幕府と対立を深めていた後鳥羽上皇が「幕府執権・北条義時追討の院宣」を発して兵を挙げ、京都守護・伊賀光季を急襲、この報を受けたときの執権・北条義時は嫡男・泰時と弟・時房を大将として大軍を派遣、6月15日の戦いで朝廷軍を一蹴する。この時、時氏も父・泰時に従い、宇治川の戦いで功を挙げたと伝えられている。

 乱の終結後、幕府は首謀者である後鳥羽上皇を隠岐、上皇の子である土御門上皇を佐渡、順徳上皇を讃岐に配流し、幕府の朝廷に対する優位性はより強まることとなった。さらに幕府は京の都の治安維持と朝廷との折衝、監視のために、六波羅に探題を置き、北方に父・泰時、南方に大叔父・時房を置くこととなった(六波羅探題)。

六波羅探題北方に就任

 元仁元年(1224年)、安達景盛の娘との間に嫡男・薬上(のちの北条経時)生まれる。

 また、同年6月13日に祖父・義時が62歳で死去したことにより、父・泰時に代わって上洛、六波羅探題北方に就任する。

 安貞元年(1227年)5月14日、京において次男・戒寿(のちの北条時頼)生まれる。

 また、同年6月18日、弟・時実が家人・高橋次郎に殺害される。

 寛喜2年(1230年)、病を得て六波羅探題北方を辞任、鎌倉に帰還し治療・病気平癒の祈祷にあたったが、6月18日死去。享年28歳。

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