概要
海防艦「志賀」
佐世保海軍工廠にて建造され、1945年3月20日に就役。
就役直後の4月20日には、慣熟運転も兼ねて天一号作戦で沖縄に出撃する戦艦大和ら第二艦隊の前路掃討に参加している。
その後は空襲での対空戦闘などを行ったものの、間もなく終戦を迎える。終戦後は掃海艇として日本近海に投下された機雷の除去作業に従事。後に特別輸送艦に指定され、船橋拡幅、士官用室・応接室・兵員室等を増設された他、船楼甲板上にボート甲板が追加され、ヨット式船形に改造された。
運輸省移管後・巡視船「こじま」
1946年12月31日、「志賀」は運輸省(現国土交通省)に移管される。当初はアメリカ陸軍の専用連絡船として博多-釜山間航路に就航していたが、翌年航路廃止に伴い解役となっている。
1950年には船名を「志賀丸」と改め、運輸省外局の気象庁にて中央気象台定点観測船として1953年まで使用された。
1954年、定点気象観測任務が気象庁から海上保安庁に移行するのと同時に「志賀丸」も海上保安庁に編入、おじか型巡視船「こじま」と改名され、3インチ砲1門と20mm機銃2基の再武装を施される。
かつて連絡船として用いられる際に居住設備を強化されていた事から、「こじま」は海上保安大学校練習船として1954年から10年間に渡って練習航海に充てられていた。
1965年除籍。練習船としての任務は新造された「こじま(2代目)」に引き継がれたが、能力不足からしばしば(当時最大の巡視船だった)「宗谷」も駆り出された。
除籍後
1965年に除籍された後はしばらく呉港に係留されていた。その後、保存船としての招致合戦の末、千葉市に払い下げられる事が決定する。
同年中に巡視船むろとに曳航され千葉市稲毛海岸に回航した「こじま」は、その後船内改装工事を受け、翌年5月18日より「千葉市海洋公民館」として用いられる事となった。また同時に周辺はこじま公園として整備された。
その後周辺の埋め立てにより「こじま」の浮かぶ水域も東京湾から切り離され、長らく公園内の池に浮かぶような形で存続していた。
1993年、消防法と建築基準法に不適合であると判明、千葉市海洋公民館は休館となり、後に1997年に閉館となった。
1998年、老朽化により解体。これをもって、水上に健在であった旧日本海軍所属の艦艇はすべて消滅し、現存する第二次世界大戦時の海軍所属の艦船は「宗谷」のみとなった。
関連タグ
戦艦三笠 陸上に現存する旧日本海軍艦艇。ただし大正末期に廃艦され岸壁に埋められており、戦後の荒廃を経て外見以外は原形をとどめていない。
宗谷(砕氷艦) 海上に現存する唯一の旧日本海軍「特務艦艇」。現在も船籍を有し航行が可能である。志賀と同じく海上保安庁に編入され灯台補給船、のち巡視船として活躍し、実習船としてこじまの代役を務める事もあった。特務艦時代の類稀な幸運と、巡視船としての絶大な功績から「奇跡の船」と讃えられている。