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木村政彦の編集履歴

2016-04-09 15:32:07 バージョン

木村政彦

きむらまさひこ

木村政彦とは、日本の柔道家である。まさにリアル刃牙。

男なら誰もが最強を夢見る。

あなたは果たして、かつて日本に存在した最強の男をご存知だろうか?

時代を制し、時代と共に散った伝説の男を………。

プロフィール

名前木村政彦
身長170cm
体重85kg(全盛期)
生年月日1917年9月10日
死去1993年4月18日
出身熊本県川尻町
通称鬼の木村

概要

天覧試合優勝に加え、今より競技人口が遥かに多く、しかも体重無差別の時代に前代未聞の全日本選手権13連覇を果たすなど戦前や終戦直後は圧倒的な強さを誇った。破壊的な技の切れや強固な精神力を持つ柔道家であり、しばしば歴史上最強の柔道家として名前が挙がる事が多い。


師は猛虎と恐れられた同じく熊本の柔道家、牛島辰熊。威圧感が半端でない顔立ち(画像)で、こちらも全日本選手権5連覇など華々しい記録を持つ実力者である。木村は高校生の頃から同年代の選手も寄せ付けない程の実力で日本一となると高校卒業後は牛島の下、拓殖大学で想像を絶するようなトレーニングを毎日積み重ね日本一の怪童から日本史上最強の鬼へと次第に進化していった。


大学生時代に阿部謙四郎に負けたのを最後に、結局引退するまで15年間不敗を貫いた。引退後は牛島含め他の名のある柔道家と共にプロ柔道という組織を立ち上げるも病気になった妻の薬を買うためにやむを得ずプロレスラーに転向したという(この事で師匠牛島と決別)。一時は有名なプロレスラーとして活躍したが1954年に蔵前で行われた力道山との謎の一戦(昭和の巌流島)をきっかけに木村は表舞台から姿を消し、引退後は母校の拓殖大学で柔道部の指導に当たった。


近年、長らくその名が忘れられていたが木村の半生を追った大作、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が出版されベストセラーとなった事で木村の名は再び現代の世に広まった。


1951年、ヒクソン・グレイシーの親でありブラジルで無敗を誇ったエリオ・グレイシーと戦い勝利している。これが総合格闘技の先駆とされる。


トレーニングの内容

木村の残した有名な言葉で三倍努力というのがある。他人の三倍努力することで初めて強さに自信をつけることが出来るという意味だが、木村は他の選手の一日の練習量を三時間と考えると単純計算でその三倍以上、10時間近く練習をこなしていたという。その内容が凄まじく

  1. 拓大や出稽古で多量の乱取り(200本以上)をこなした。
  2. ウエイトトレーニングを1時間。
  3. うさぎ跳びで1km。
  4. 腕立て伏せ1000回。
  5. 寝る前には大木への打ち込み1000回。(ついにはその木は枯れてしまった。)
  6. 加えて左右1000回ずつ正拳突きも行っていた。

これを毎日繰り返す。まさに鬼である。

更に睡眠時間を惜しみ一日三時間しか睡眠を取らなかった。

どう考えてもハードワークだが何故か木村は体が壊れなかった。



選手としての特徴

このキチガイじみたトレーニングに裏付けされるように、木村は驚異的な怪力の持ち主であった。

技は光の如く早く、こっちから技を掛けてもまるで石のように動じなかったと同年代の選手は語る。(木村相手に何秒持つかが選手たちの持ちネタだったという。)

師匠牛島と同じく荒々しくプレイスタイルから、柔でなく剛道と称される。

また寝技の腕もかなり高かった。拓大で木村の教え子である東京オリンピック銀メダリストのダグ・ロジャースや日本選手権優勝を果たした木村の一番弟子である岩釣兼生も寝技では50歳過ぎの木村に全く歯が立たなかったと語る。東京五輪時でも現役の日本代表選手より卓越した寝技技術を持ってたため木村政彦を出場させようか、という冗談まで持ち出された事もある。

体格

画像

全盛期の頃に撮影された半裸姿の写真が残っている。その写真から推測するに肩幅は60cm近くあり(現代の平均は45cm)首は顔の横幅と同じくらい太い。貧しい家に生まれた木村は幼い頃から家の手伝いで砂利掬いを毎日していたので強靭な足腰が生まれたという。この写真でも足の付け根やふくらはぎが丸太みたいに太々しいのが確認できる。兵役時は軍服のサイズが合わないほどの体格で従事していた軍基地の集合写真には一人だけ服がパンパンに膨れているのが確認できる。

範馬刃牙の祖父、範馬勇一郎のモデルである。


屈強な精神力

木村は負けたら腹を切る覚悟で試合に望んでいたため、常に短刀を携帯していたという。彼にとって柔道はスポーツではなく武道であり、木村は勝負師として命を賭していたという。

この考え方は牛島の影響が大きい。元来、柔術は武士が最後の手段として殺し合いに使った体術であり、柔道も同じ物だと考えた牛島にはその精神力の強さを表すエピソードがいくつかあるほど。木村の師として活動していたときも、大学一年生の木村が勝ち抜きの昇段試験で八人目で力尽きて負けたものの七人抜きをしたことを認められ技量抜群で昇段したことを牛島に報告すると牛島は激怒し「お前は七人殺して八人目に殺されたのだ」と叱咤したという。この件以降、木村は柔道に対する考え方を一新することとなる。



得意技

  • 大外刈り

木村の真骨頂とも言える技。通常は相手の足を刈り上げ後方へ倒す技だが木村の場合はその強靭な足で相手の体もろとも刈り上げ垂直に叩き落とす。あまりにも凶暴すぎて出稽古では失神者が続出したため使用禁止になったという。

  • 腕搦み

最も危険だとされる間接技の一つ。彼なりに改良して独自の腕搦みを開発した。どの角度からでも決める事ができたため、出稽古では脱臼者が続出したためこれも使用禁止となったという。



昭和の巌流島

1954年、蔵前で行われた元力士のレスラー力道山との試合を指す。

元々は引き分ける予定だったのにも関わらず試合では途中まで順調に試合が続いていたのが木村の蹴りが決まった直後に力道山は血相を変え木村政彦に不意打ちをし、戸惑う木村に更に猛攻撃を加えた。さすがに耐えきれなかった木村はその場で倒れ込み遂には起き上がる事ができなかった。

この瞬間、力道山が勝利。謎が多く残る試合となった。

主張

力道山によれば木村の蹴りが急所に当たったからカッとなったと主張するが、試合前からの力道山の入念な準備や念書をすっぽかすなど、当初からブック破りをするつもりだった可能性が高い。

その後

この試合を機に力道山はスターへの道を着実に歩みプロレス界を牽引する一大ヒーローとなる一方、当時のプロレスを世は本気の試合と信じてたため木村の名誉は失墜しプロレス界から立ち去る他無かった。

両者の今後の人生の明暗をハッキリ分けた試合である。

木村は終生この試合の事を悔い、力道山に対し大きな恨みを持っていた。力道山がヤクザとのいざこざで刺され死亡したときは「俺が恨みで殺した」とまで言っていた。


また動画では試合後にリングに上がり木村の後ろを歩く牛島の姿が確認できる。決別したままの二人だったがやはり牛島は木村の事を大変気にかけており、二人は強い絆で結ばれた師弟関係であったのは言うまでもない。


史上最強の称号

説明したように木村政彦は史上最強の柔道家と讃えられる事が多い。そこでよく比較されるのがこれまた驚異的な記録を持つ日本の柔道家、山下泰裕だがどちらの全盛期も知る人々は木村政彦のが強いと皆口を揃えて言う。こればかりは対戦しないと分からないが、全盛期の頃の映像がないからこそ木村の実力は果たしてどんなものだったのか想像が膨らむだろう。


木村の強さを表す有名な言葉として 木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし というのがある。

関連人物

合気道の達人。同じ拓殖大学出身であり木村の先輩にあたる。塩田は木村の強さを絶賛しており、木村もまた塩田と腕相撲して全部負けたと語る。

合気道の創始者にしてこれまた木村と同じ拓殖大学出身であり木村の後輩にあたる。木村の事を兄貴と慕っており、共にとても仲が良かった。力道山とも面識があり力道山の代名詞とも言える空手チョップは大山倍達のもとで会得した技だった。木村と力道山の試合をリング下で観戦していた一人であり、試合後はブック破りをした力道山に半狂乱で詰め寄り、試合を申し込んだという。

木村、力道山、大山。時代を築いた三人の武道家がリンクで交錯した瞬間である。


関連動画

第2Rからの撮影。このとき木村は35歳。全盛期はとっくに過ぎてのこの強さ。相手のエリオも40とはいえブラジルでは敵なしであり、他の日本人柔道家にもほぼ全勝しているため生涯で唯一の黒星となった。

現役時代含め木村政彦の唯一の公式な試合映像であり、貴重な動画である。


途中まではあからさまなやらせ。ちなみに映像は部分でカットされており力道山側に有利な映像だけが繋ぎ合わされているという説もある。

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