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工藤俊作(海軍軍人)の編集履歴

2016-05-17 22:15:14 バージョン

工藤俊作(海軍軍人)

くどうしゅんさくかいぐんぐんじん

工藤俊作(海軍軍人)は駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物

工藤俊作(海軍軍人)

1901年生まれ。海軍では主に水雷畑を歩み、駆逐艦「太刀風」艦長、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を経て駆逐艦「雷」の艦長となり太平洋戦争を迎えた。


1942年2月ジャワ海の制海権争奪に敗れたアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・オーストラリア連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかった。この際、2月27日の戦闘で駆逐艦エレクトラが、3月1日の戦闘では英巡洋艦エクセター及び英駆逐艦ポープ・エンカウンターが日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈された(スラバヤ沖海戦)。


彼らは3月1日から2日にかけて駆逐艦「江風」、「山風」、「」、「天津風」、「」などに救助されたが、捕虜の扱いは各艦で大いに異なった。


3月2日、「雷」は、艦長工藤俊作の指示により、ポープ・エンカウンター両艦の乗員合計約422人を僚艦「電」と協力して救助に当たる。


彼らはオランダの病院船オプテンノール(日本側制海権下にあり、日本駆逐艦の臨検中)に収容された。

 

工藤は戦後そのことを家族に語ることは無く、1979年に胃癌のため死去。享年78歳。


語らなかった理由として「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族に語らなかったと思われる。


捕虜たちのその後

捕虜たちが収容された病院船オプテンノールはその後日本軍に抑留・接収され、捕虜たちは同船に収容されていたオーストラリア人やオランダ人の捕虜とともに日本に送られる。


そして彼らの多くは麻生鉱業(後のは麻生セメント、現麻生グループ)に割り当てられたが、麻生鉱業は労働環境が劣悪な今で言うブラック企業であり、捕虜たちは虐待されながら働かされ、戦後に強制労働として問題になった。エクセターやエンカウンターの元乗組員たちとともに働かされていたオーストラリア人捕虜は、麻生太郎(麻生セメント元社長)が首相だった時代に麻生に謝罪を求める手紙を出している。


pixivでは

はーい、艦長いきますよ~!少女が見たモノ

ブラウザゲーム艦隊これくしょんの影響で、駆逐艦「雷」をモデルにしたキャラクターセットで描かれることが多い。

(左の絵にはがいるが史実でも工藤は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進している。)


関連項目

工藤俊作(無印)

海の武士道

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