概要
第二次世界大戦中、川西航空機が開発し、大日本帝国海軍に採用された4発大型飛行艇。制式名称は「二式飛行艇」で、輸送型は「晴空」と呼ばれた。
飛行艇としては当時世界最高の性能を誇った。
開発経緯
第一次世界大戦後、日本は赤道以北の旧ドイツ領ニューギニア地域(内南洋)を委任統治することとなったが、軍事施設を置くことは禁止されていた。このため、大日本帝国海軍は有事の際アメリカ軍に対抗するため航続距離の長い大型飛行艇によるアウトレンジ戦法を模索した。
日本海軍は川西航空機にショート社(イギリス)に設計を依頼した九〇式二号飛行艇を製造させ、1934年には九試大型飛行艇(のちの九七式飛行艇)を発注するなど、大型飛行艇メーカーとして育成していった。
1938年4月18日、海軍航空本部技術部より「十三試大型飛行艇」の計画要求案が川西に出されたが、陸上機と同等の攻撃力を備え、長大な航続距離を持つ高速機という過酷なものであった。航技廠からは1940年中の試作機完成を求められた。
川西では九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を中心に設計にあたった。
1939年12月30日、十三試大型飛行艇は初飛行に成功するが、過荷重28tの離水テストでは飛沫でプロペラ先端が曲がり離水不能となる。水槽実験を繰り返した末、飛沫を抑える事に成功し、1942年2月5日、「二式飛行艇」として制式採用された。
脅威の飛行艇
イギリスの評論家ウィリアム・グリーンが自著中で「(二式大艇は)連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれた」と記述している。
防御火器は強力で、20mm機関砲が機首・胴体左右・胴体上・胴体最後尾の5か所に設けられるが、飛行艇であるため底部に砲座を設けることはできず、弱点となっていた。尾部底面に7.7mm機関銃1挺を装備出来る予備銃座があるが、海面すれすれを飛んで底部をカバーする事が多く、使用される事はまず無かった。
日本機には珍しく、機内にベッドやトイレ、エアコンなども完備され、長時間のフライトに備えている。ただし、当時の日本は生産技術のレベルが低く、機内には常にガソリン蒸気が漂っているため火気厳禁であった。海上にあっては船底からの水漏れに悩まされ、海水の汲み出しが欠かせなかった。
驚異的なまでの高性能を誇る二式大艇だが、『あくまで飛行艇としては』という但し書きが付く。飛行艇の範疇を逸脱し攻撃機として期待されたが、通常の爆撃機に対しては搭載量などでハンデを背負っている。
大型高速で重武装の二式大艇を攻撃することは、敵戦闘機にも危険が伴った。機体は頑丈で、3機のP-38と40分交戦して1機を撃退、230箇所に被弾しエンジン2基停止の状態ながら帰還できた例もある。
また、自ら連合国軍爆撃機を追撃することもあり、搭乗員は『PBYなら追いかける、B-17は対等に相手できる』と豪語していたとされるが、B-17やPB4Y-2相手では撃墜された事の方が多い。
連合国側が制空権を確保するようになると、索敵中に行方不明・未帰還となる二式大艇が頻発した。
また、日本海軍に二式大艇を収める掩体壕を作る余裕はなかったため、海上に停泊中は敵爆撃機のちょうど良い的となり、失われる機も多かった。
各タイプ合わせて167機が製造されたが、終戦後、連合国軍に引き渡されたのは僅か3機であった。
性能諸元(一二型)
全長 | 28.13m |
全幅 | 38.00m |
翼面積 | 160.00m² |
全備重量 | 24.5t |
乗員 | 10~13人 |
エンジン | 三菱 火星二二型 空冷複列星型14気筒×4基 |
最大出力 | 1,850馬力×4 |
最高速度 | 465km/h |
航続距離 | 7,153km(偵察過荷重) |
固定武装 | 九九式 20mm旋回機関砲×5 九七式 7.7mm旋回機関銃×1(予備×3) |
雷装・爆装 | 航空魚雷×2 または、九七式六番 60kg爆弾×16 または、 |
九二式二五番 250kg爆弾×8 または、九九式八〇番 800kg爆弾×2 |
戦後
日本で唯一現存する機体が、海上自衛隊鹿屋基地で保存されている。太平洋戦争中の鹿屋は特攻基地であり、二式大艇も大戦末期、丹作戦では特攻機を誘導する役目を負った。
二式大艇の設計主務者、菊原静男は救難飛行艇US-1の元になったPS-1を設計した。US-1には21世紀に入って改良型のUS-2が登場している。
フィクションに登場する二式大艇
逮捕しちゃうぞOVA版
艦隊これくしょん:秋津洲改の初期装備として登場。ほぼ偵察機扱いで、攻撃能力は対潜のみ。しかし異様に長い航続距離が反映され、イベント海域では基地航空隊の到達距離延長役として重要な機体となっている