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国産初の四発機

第一次世界大戦後、日本は赤道以北の旧ドイツ領ニューギニア地域(内南洋)を委任統治することとなったが、軍事施設を置くことは禁止されていた。このため、大日本帝国海軍は有事の際アメリカ軍に対抗するため大型飛行艇を活用する事とした。

日本海軍はショート社(イギリス)に設計を依頼した九〇式二号飛行艇を製造させるなど、川西航空機を大型飛行艇メーカーとして育成していった。

1934年、日本海軍は九試大型飛行艇を川西に発注した。

川西はライバルと目されたコンソリデーテッドP2Y-1などを参考に設計を進め、1936年7月14日、試作1号機が初飛行した。

1938年1月8日、金星エンジン(三菱重工)を搭載した増加試作機が「九七式飛行艇」として日本海軍に制式採用された。

「航続距離4,625km以上」「航空魚雷を2本搭載」といった要求に応えるため、国産初の実用四発機となった。そのためエンジン4基の同期動作や大きな機体を十分に操舵するための操舵系の開発など、かなりの苦労があった。

1942年までに179機が生産され、輸送機型の九七式輸送飛行艇も38機が生産された。

性能諸元(二三型)

全長25.6m
全幅40.0m
翼面積170.0m²
全備重量17.5t
乗員9人
エンジン三菱 金星五三型 空冷複列星型14気筒×4基
最大出力1,300馬力×4
最高速度385km/h
航続距離6,771km(偵察過荷重)
固定武装九九式 20mm旋回機関砲×1 九七式 7.7mm旋回機関銃×4
雷装・爆装航空魚雷×2
  • または、九七式六番 60kg爆弾×12
  • または、九二式二五番 250kg爆弾×4

運用

定期航空便

1941年1月、九七式輸送飛行艇は国策航空会社「大日本航空」に、内南洋への定期航空便用として14機が採用され、海軍の教官が指導に当たった。

11月25日、パラオからの第1回定期便が飛んだが、12月8日に太平洋戦争が勃発し、大日本航空の九七式輸送飛行艇は日本海軍に徴用されることとなった。

海軍

1941年からアメリカとの戦争に備え、南方で調査・偵察にあたり、太平洋戦争勃発後は連合国軍泊地への長距離爆撃にあたったが、(開発時期を考えると仕方ないが)防弾装備を怠った事がたたり敵戦闘機の迎撃を受けて失敗が続いた。

その後は偵察・哨戒機としての運用に切り替えられたが、敵爆撃機や飛行艇すら脅威という状態で、後方での連絡・輸送にまわされる事となった。

後継機

後継機として二式飛行艇(二式大艇)が開発された。

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