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真田氏の編集履歴

2017-08-19 19:31:22 バージョン

真田氏

さなだし

真田とは日本の名字の一つ。

興り

信濃国長野県)で清和天皇の子孫(清和源氏だが源経基とは別系統)。但し異説有だが・・・。

その中で本流である滋野氏は小県郡の領主でありその分家・海野氏(うんの)出身とされている。

海野初代から3代目に当たる長氏の子の一人・幸春(ゆきはる)が真田を名乗ったとされている。

その後は争いで領地を失うも武田に仕えたことにより旧領が回復した。

幸春から数代後の幸隆から歴史は動きだす。

幸隆(幸綱とも)は本家筋であり最後の当主・海野棟綱の孫(実子説有り)として誕生。

武田信玄からも信頼されており二人の子も活躍していた。

ところが長男、次男が相次いで戦死(合戦場所は同じ)したため三男・昌幸があとをつぐ。

昌幸ははじめ、武田滅亡後、そして織田信長が無くなった後空っぽになった信濃は家康が来た。

諏訪等のほかの信濃国人が和平を結ぶ中結ばず、とうとう家康と対決(第一次上田合戦)。

頭脳を用いた戦法で家康を苦しめた。その後は秀吉に臣従。

天下分け目の合戦(関ケ原の合戦)では必ず生き残れるように長男の信之を徳川方にした。

その後、昌幸と信繁は九度山へ、信之は上田藩の後松代藩の藩主となり真田の血を残した。

一方、信繁たち一族も各地で子孫を残し今に至っている。


主な人物

・真田幸春

真田氏の初代。


真田幸隆(幸綱)

真田氏を成長させたいわば中興の祖。


・真田頼昌(よりまさ)

幸隆の父とされるが異説有。ほかの子に矢沢頼綱


真田昌幸

家康が最も恐れたとされる人物。策略や頭脳戦が得意だったもよう。


真田信之

昌幸の嫡男。のち松代藩藩主。始めは幸だったが家康の命令で之に改めたという。


真田信繁(幸村)

信之の弟。のちの大阪の陣では頭角をあらわし家康も『日本一のつわもの』と称したという。


通字

通字は幸(初代も使っているが綱(つな)が通字だったという説もある(幸綱、頼綱、信綱など))

松代藩は信(のぶ)を使っていたが幕末になると幸(ゆき)に戻している。

信繁流も信を使っている。(幸を使っている家もある)


家紋

真田といえば六連銭と言われるほど定着しているが実際は本家の海野氏や滋野氏の家紋である。


関連項目

真田家・・・この記事より早く作られた


真田丸(大河ドラマ)・・・真田一族が主なため矢沢頼綱など一門も登場する。


陣内家・・・サマーウォーズ。家の元ネタとされている。


戦国時代 信濃国 上田城

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