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ラインハルト・ハイドリヒの編集履歴

2017-11-25 16:11:20 バージョン

ラインハルト・ハイドリヒ

らいんはるとはいどりひ

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich)は ナチス・ドイツの軍人、政治家である。

概要

親衛隊大将や国家保安本部(RSHA)の初代長官、最終的にはベーメン・メーレン保護領総督にまで上り詰めた。

優れた密偵・工作の能力でドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であり、その冷酷さから「金髪の野獣」と渾名された。


ユダヤ人問題の最終的解決計画は「ホロコースト」と呼ばれ、即ちユダヤ人の絶滅となるのだが、何故こうした主義を抱く様になったのかは、母方の祖母の再婚相手がユダヤ人のような名前だった事から少年時代から「ハイドリヒはユダヤ人だ」と馬鹿にされてイジメられていたことから繋がっている。


元々、海軍の軍人だったが、淫らな女性関係がバレてしまい(そのうちの一人は海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥の姪)、除隊処分に陥る。

1931年に、親衛隊を拡張しようと企んだヒムラーによって親衛隊へと勧誘され、第二次世界大戦開始以前から国内と他国から情報をかき集めて、ナチスが優位に立つように働く。そうして親衛隊の中ではヒムラーに次ぐ有力な軍人として君臨し、1943年にベーメン・メーレン保護領と称されたチェコの植民地を徹底的な圧力で統治する支配者になる。


彼の影響を恐れた敵・連合国イギリスは、チェコ当地の人民や政府によってハイドリヒを暗殺させる計画「エンスラポイド作戦」を立案。

チェコ軍人を暗殺部隊に育てる計画の援助を行ない、1942年5月にチェコのプラハで乗車中だったハイドリヒは、部隊からの銃撃と爆破攻撃を受けてしまう。

この時は重傷で済んだが、後日6月4日に病弱が悪化し死亡。


ヒトラーらは彼の死を嘆いたあげく、復讐としてか逃亡していた暗殺部隊を含む多くのチェコ人が殺され、強制収容所に送られてしまった。

だが彼の死については、ハイドリヒという優れた存在を恐れ、己の身分を守ろうと部下を死に至らしめたという上司、ハインリヒ・ヒムラーの陰謀が絡んだという逸話が存在する。


ちなみに、ハイドリヒは命を落とす9か月前にプラハ城内あるヴィート大聖堂という教会に安置されていたボヘミア王の王冠(聖ヴァーツラフの王冠)を遊び半分で被ったことがあった。その王冠には「真のボヘミア王以外の者が被れば必ず一年以内に死ぬ」という伝説があり、ハイドリヒはそれを否定するために被ったのである。結果は先述の通り、被ってから一年もしない内に死神に連れて逝かれた


性格

個人としてのヒムラーは思いやりのある好人物だったと伝えられるが、ハイドリヒはめったに笑わず、人前に出ることを好まなかった。

ハイドリヒはフェンシング・乗馬・飛行機といったスポーツに長けて、SSの体育監察官を務めるほどだったが、それでも友人はほとんどいなかった。またその数少ない友人の一人が後にヒトラー暗殺計画に加担したとされ処刑される国防軍情報部(アプヴェーア)長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将であったのは皮肉である。

SSの高級幹部たちと遊興に耽ることはあったが、冷たい美貌の持ち主だったのに、娼婦たちの間でも不人気だった(それどころか情報収集のために盗聴器だらけの娼館を営業していた上に自身も常連で、挙句の果てに自分が利用する時だけは盗聴器のスイッチを全てOFFにさせていたという体たらくだった)。写真を撮影されるときも、ハイドリヒは狼のような目つきでカメラを凝視するために、彼が笑顔を堪えて写し出された写真は殆ど無いと言ってもよい。

ヒムラーにとって総統ヒトラーは絶対的存在であったが、上司が総統に見せる忠誠心をハイドリヒは侮蔑していた。ハイドリヒはあらゆるイデオロギーを軽蔑しており、ナチスの主義思想を信奉しようとは全くしなかった。

ヒトラーから重用されていたにも拘らず、ハイドリヒはヒトラーすら内心で軽んじていたという。

ここまで記述した内容で分かるように、公人として優秀な代わりに人格は問題児だらけのナチス内ですら最低過ぎて擁護のしようが無かったが、家庭では女性問題の酷さを除けば意外と真っ当な人物であったという。結婚の際の些細な擦れ違いから疎遠になってからも母への仕送りを欠かさなかった孝行息子であり、(長男が事故で夭逝したのもあるのだろうが)次男が少年兵になるのを防ぐためにヒトラーユーゲントに入れなかった子煩悩でもある。女性問題の方も奥方が(多分、数え切れない数の女性問題に対する報復目的で)浮気して以降は反省したらしく、以後は生涯夫婦円満であった。奥方は後に再婚したものの、死ぬまでハイドリヒを擁護し続けていたという。


フィクションにおけるハイドリヒ

その冷徹さ・カリスマ性がウリで、主にWWⅡを舞台・モデルにした作品に出ることが多い。

日本においては漫画・小説・ゲーム以外の作品にはめったに出ない上、戦時中に死去してしまう事からヒトラーやヒムラー、アイヒマンに役を取られがちである。

  • 「死刑執行人もまた死す」(1943)

戦時下のアメリカで作られた映画。ハイドリヒの手腕を恐れた連合国がチェコ人のレジスタンスに暗殺を命じ、その暗殺計画に関わるレジスタンス達の切迫した状況と葛藤を描く。

ちなみにハイドリヒが死去したのは1942年なので、死からわずか一年後に作られたものである。

  • 「レートル」シリーズ(1990)

主人公のライバル役の人物・ヴィクトールの叔父として登場。

WW2以後も第三帝国が存在する世界で第三代総統となる。

  • 広江礼威作品

『翡翠峡奇譚』(1993)で総統直属部隊の女魔術師に脅され敬語で命乞いをするという場面がある。また『ブラック・ラグーン』(2001~)では元SS将校の回想で名前だけ登場する。

  • 「策謀」(2003)

アメリカで放映されたTV映画。大戦末期にハイドリヒ主催で開かれたユダヤ人問題の会議『ヴァンゼー会議』を描いたもの。何気ないナチス高官たちの会食の中で、600万人ものユダヤ人の運命が決定されてしまう。

海外映画におけるハイドリヒのような独特のいやらしさを持つ描かれ方をしている。

第四帝国国民に「ラインハルト」という人物が登場する。容姿がよく似ているがどう見ても小物のため別人である。非公式だが作者が「ハイドリヒの子孫」と語ったという話がある。

かつてナチスドイツによって創設された、現代に蘇りし魔人の組織聖槍十三騎士団の首領。

戦時中に魔術師に誑かされ、魔術の薫陶を受けた事で現代まで生き延びている。人を超越しているので百余歳にも関わらずイケメン。

→詳細はラインハルト・ハイドリヒ(Diesirae)

ミステリー歴史小説。史実通り親衛隊のナンバー2として登場しており、小説内では他の第三帝国幹部とは比較にならないほど登場比率が高い。二人の主人公の内、親衛隊情報部に所属するアルベルトの上司であり、ある種の後見人的立ち位置。


なお、名前のラインハルトと聞くと某SF小説作品金髪の孺子を思い出してしまうのは、やはり知名度の違いというべきか…。あの作品では軍務尚書あたりがハイドリヒに相当する役柄だと思う、というのは余談。むしろ、人格的には公人としては外道だったが私人としては慈善事業支援と家族の幸せに人生を捧げた狸親父の方に相当すると思われる。ただし自身の警護が大量について仰々しくなることを嫌っていた面では多少似ているかもしれない。


経歴

1922年18歳でドイツ海軍に入隊。士官候補生となる。
1926年海軍少尉に任官。通信将校となる。
1928年中尉に昇進。周りから有能な将校と目されるも、性格が災いして周りから孤立気味だった。
1931年プレイボーイ精神を発揮しすぎて海軍上層部とコネがあるドイツ屈指の大企業重役の娘に手を出したため軍法会議にかけられ、不名誉除隊処分を受ける。
その後、通信将校のハイドリヒを情報将校と勘違いした親衛隊からスカウトされる。
海軍解任が有効になった翌日にナチスに入党。その二週間後の7月14日にSSに入隊。SS少尉に。
8月10日にSS中尉に昇進し、12月1日にはSS大尉に、25日にSS少佐に昇進。
1932年7月にSD長官に任命され、親衛隊の情報部門の責任者となる。
その10日後、SS大佐に二階級特進する。
1933年3月21日にSS上級大佐に昇進。ミュンヘン警察政治局長に任命される。
4月1日にはヒムラーがバイエルン州警察長官に昇進し、ハイドリヒも州政治警察部長となる。
11月9日、SS少将に昇進
1934年4月20日、ゲーリングはヒムラーをゲシュタポ長官代理に任命。その2日後にハイドリヒはゲシュタポ局長に任命される。
長いナイフの夜の活躍により、SDはナチス党内で唯一の諜報機関と認められる。
6月30日にSS中将に昇進。
1936年6月17日にドイツ全州の警察指揮権が中央政府に移管され、ヒムラーがドイツ警察長官に。
6月25日にヒムラーによって刑事警察とゲシュタポが統合され、ハイドリヒは保安警察長官に任命される。
1939年ユダヤ人問題を担当していたゲーリングの命令で「ユダヤ人移住中央本部」が開設。その本部長に就任する。
趣味の飛行機フライトだけでは満足できなくなり空軍の訓練を受け、空軍予備役中尉になる。
9月1日にポーランド侵攻が開始されると空軍将校に頼み込んで機銃手として参戦。
9月27日、SDと保安警察が統合され、親衛隊内に国家保安本部が設立。その初代長官となる。
1940年ポーランド戦における戦果で空軍予備役大尉に昇進。
4月には戦闘機のパイロットとしてノルウェー戦線に出撃している。
8月に国際刑事警察委員会(インターポール)の総裁に就任。
1941年空軍予備役少佐に昇進。
ゲーリングにユダヤ人問題を委任される。
東部戦線で撃墜されたが生還。総統から飛行禁止命令を受ける。
9月23日にヒトラーからベーメン・メーレン保護領副総督に任命される。
副総督に任命された翌日に親衛隊大将及び警察大将に昇進。
1942年1月20日にユダヤ人絶滅作戦が決定されたヴァンゼー会議を主宰。
ベーメン・メーレン保護領統治が成功したのを受け、次期フランス・ベルギー総督に内定。
5月27日にチェコのレジスタンスの奇襲を受け、病院に移送される。
6月4日に「負傷による感染症」で死去。

このように某SF小説作品ラインハルトに勝るとも劣らぬ出世スピードである。

死亡時の肩書を列挙すると、以下の通りである。

  • 親衛隊大将及び警察大将
  • 国家保安本部長官(総統以外に干渉されない為に保安警察及びSD長官の肩書を使い続けた)
  • ベーメン・メーレン保護領副総督(総督がお飾りなので事実上チェコの王様)
  • ユダヤ人問題の担当
  • ドイツ国会議員
  • インターポール総裁
  • 次期フランス・ベルギー総督
  • 空軍予備役少佐
  • 元海軍中尉(不名誉除隊処分)

分かりやすくまとめると情報機関と警察組織の大部分を掌握しており、統治能力も桁外れで、空軍パイロットとして政府の高官なのに前線勤務してる勇気と活力があり、ユダヤ人絶命作戦の実質的指導者であり、第三帝国総統ヒトラーからの評価も極めて高いという人物。

総統から直々に後継者指定を受けていたゲーリングや上司であるヒムラーをさしおいて、ヒトラーの後継者と内外で噂されたのもうなずける話である。


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