概要
葛城は、旧日本海軍の空母の1隻。雲龍型に属する。名前は奈良県にある葛城山に由来する。
ミッドウェー海戦で虎の子の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失ったことを受け、海軍は改⑤計画という空母15隻の建造を画策した。雲龍型は、この際量産型として選ばれた艦型である。
しかしながら、敗勢の中計画通りに行くはずもなく、結局就役したのは雲龍、天城、葛城の3隻(続く3隻は建造途中で中止)にとどまった。
本艦は就役した3隻のうちの最後の1隻である。信濃は就役こそしたものの、工事未了のまま横須賀から呉への回航途上、米海軍の潜水艦アーチャーフィッシュに撃沈されたため、この葛城が旧日本海軍が最後に完成させた空母となった。
スペック
全長:227.35m
全幅:27m
最大速力:32ノット
出力:104,000馬力
基準排水量:17,150t
運用実績
葛城は昭和19年10月15日に竣工した。1番艦の雲龍、2番艦の天城とともに第1航空戦隊を編成したが、これら3隻に載せる母艦航空隊(第601海軍航空隊)は、台湾沖航空戦~レイテ沖海戦に投入されて消耗してしまった。
レイテ沖海戦の敗北以降、日本海軍は大型水上艦艇を動かす燃料が絶望的に不足していた。また台湾沖航空戦~レイテ沖海戦で著しく消耗した航空戦力の再建も、基地航空隊の方に重点が置かれ(前述の第601海軍航空隊も結局基地航空隊となった)、葛城が本来の空母として出撃する機会はなかった。
昭和20年3月の呉軍港へのアメリカ軍機による最初の空襲で小破。以降天城と共に対空擬装を施して疎開係留されていたが、7月の二度に亘る再度の空襲で、3月のときと合わせて計4発の爆弾を被弾し(3発との説もある)、中破状態で終戦を迎えた。
しかし、葛城の真の活躍はここから始まった。
終戦後、外地に取り残された日本人を復員させるにあたって、被弾こそしていたものの修理すれば航行に問題が無く、一度に3000人を輸送できる本艦は復員船(特別輸送船)として使用されることとなった。本艦の(本来の空母としてではなく、復員船としてではあるが)初めての海外遠征は、昭和21年からのニューブリテン島ラバウルからの日本人復員任務であった。
同年4月、葛城は無事に神奈川県の久里浜港に入港した。その後も約5万人の復員者を輸送した。
復員船として転用された旧海軍の艦船は数多いが、船体が大きい葛城では、艦内で復員兵達がレクリエーションを楽しむ余裕もあったと言われる。
最後の“任務”を終えた葛城は、同年12月から解体が始まり、翌22年11月には解体が完全に終了。短いながらも波乱の生涯を終えた。
エピソード
本艦の建造に関しては陽炎型駆逐艦のタービン2隻分を流用しており、雲龍型の他の2隻と比べて最大速度が少し劣っていたと言われる。
本艦の操縦マニュアルは敗戦時に廃棄されてしまっていたが、同型艦であり、呉で大破していた天城艦橋内に放置されていたため無事に運転することができた。