源義仲ともいわれる。
概要
河内源氏の一族、源義賢の次男で、幼名は駒王丸。
幼少の時、父・義賢が甥の源義平に殺され、その後斎藤実盛らの情により、木曾の山中に匿われ成長する。
通称を「木曾次郎」と呼ばれた。
治承四年(1180)、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をし、寿永二年(1183)、砺波山で平維盛を敗り、入京する。
そこでその功を賞して「朝日将軍(旭将軍)」の称号を後白河法皇から与えられたが、その後の木曾義仲軍の粗暴な行為に困られ、密かに頼朝に義仲追討命令をだされてしまう。
寿永三年(1184)、義仲は頼朝が差し向けた源範頼・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。
容貌
「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」
「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」
(『源平盛衰記』)
関連人物
源義賢 - 父
中原兼遠 - 育ての親。
山吹 - 妻。兼遠の娘。
木曾義高 - 嫡男。
巴御前 - 妾。濃国の武将とされる女性。
今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠 - 配下。義仲四天王と呼ばれた。
覚明 - 右筆。
関連書籍
百錬抄 吉記