小山田信茂
おやまだのぶしげ
概要
天文8年(1539年)~天正10年(1582年)
甲斐国(山梨県)の戦国武将で甲斐武田氏の家臣の一人。通称は「弥五郎(やごろう)」。
甲斐武田家19代当主・武田信玄に仕え、後世では「武田二十四将」の一人に数えられる。戦では度々先陣を切り最前線で戦い、政務では他家との取次役として活躍したとされ、年上の山県昌景からは「文武相調ひたる人物」と高く評された。
しかし、その後代の武田勝頼に最後は離反し、結果、主家の血筋を絶つ要因となったことから、後に降伏した織田信忠から「不忠者」として討たれることになる。
生涯
天文8年(1539年)もしくは天文9年(1540年)、郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。
因みに長男は父と同じ諱の小山田弥三郎信有。信茂とは同い年であったとされ、天文19年(1550年)に出羽守が柏尾山大善寺(甲州市勝沼町)を参拝した際、「鶴千代丸」「藤乙丸」という同い年の男児(共に当時12歳)を二人連れており、鶴千代丸が兄の弥三郎、藤乙丸が信茂であったと推測されている。
天文21年(1552年)に父が病死し、当初、家督は長男である弥三郎が継いだが、その弥三郎もまた永禄8年(1565年)に病死したため、次男である信茂が家督を継いだ。
初陣については諸説あり、最も早い時期で第一次川中島の戦い(1553年)にて「小山田左兵衛」が先陣を切ったとされるが、後世、この「左兵衛」は弥三郎のことであるとされる(実際、信茂も左兵衛を名乗っていたらしいが)。ただ、同い年の(もしくは齢が近い)兄が戦線に加わっていたことから信茂も少なからずこの時期に初陣を飾ったと推測される。永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』および『甲陽軍鑑』の中に「小山田弥五郎」の名が記されており、この頃すでに250騎を与えられていた。以降も主君信玄に付き従い各地で奮戦したとされる。
政務においては武田氏・後北条氏・今川氏による甲相駿三国同盟にも関与したとされる。
同盟が解消されてからは、今川領へ侵攻した駿河侵攻では先陣を切り、以降も今川氏、後北条氏を相手に転戦したとされる(ただし、一部の戦に参陣したかについて異説も存在する)。また、徳川家康との三方ヶ原の戦いでは投石隊を率いたとされるが、これは後世の創作である。
信玄死後は家督を継承した武田勝頼に仕える。
長篠の戦いに際し、信茂は他の家臣団(馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、原昌胤など)と共に退却を勧めたが、勝頼は受け入れず合戦を強行したとされる。結果、武田軍は大敗を喫し、多くの家臣が命を落とした。信茂は、勝頼を警護しながら退却した。
戦後、上杉家中で起こった御館の乱では、当初、武田は甲相同盟から北条氏の養子である上杉景虎に加勢していたが、相手方である上杉景勝から財政難の武田への支援を条件に和睦を提案されこれを承諾。かつて甲相の同盟にも関与した信茂が取次役に抜擢された。しかしその後、武田が撤兵した後、景勝は景虎を攻め落とし上杉の家督を継承。この出来事から北条氏より恨みを買った武田は上杉との甲越同盟を成立、引き続き信茂が取次役を務めた。
そして、織田信忠による甲斐攻めが始まった後、信茂は新府城を捨てて自らの居城である岩殿城へ来るよう勝頼に提案する。この時、真田昌幸も上州への逃亡を進言しているが、勝頼は自分に尽くしてくれた信茂の言葉を信じて、彼の進言の方を聞き入れる事にした。
一足先に岩殿城に戻った信茂だったが、勝頼一行が自身の領地へ移動している最中に離反。結果、勝頼一行は滝川一益率いる織田軍の追撃を受け(天目山の戦い)、その末に死亡(討死、自刃とも)。ここに武田家は滅亡した。
この信茂の離反は、受け入れを決定した後、小山田家中にて反対の声が多く上がったためとも、甲州征伐時点で既に織田から寝返りの要請があったともされる。
その後、織田に嫡男を人質として差し出し恭順の姿勢を示したが、信長の子・織田信忠から主家(武田)への不忠を咎められて甲府で親子ともに処刑された。