ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

人物

1919年2月6日~2013年10月13日高知県出身(出生は東京)の漫画家絵本作家イラストレーター詩人歌手

日本漫画家協会理事長、有限会社やなせスタジオ社長。季刊雑誌『詩とファンタジー』責任編集。

ミシェル・カマという筆名で作曲活動も行った。

代表的な作品としては『アンパンマン』シリーズ、『チリンの鈴』『やさしいライオン』など。また、有名な童謡手のひらを太陽にを作詞したのは彼である。

遅咲き漫画家

幼少期に父が亡くなり、縁故を頼り高知県に移る。母が再婚したため、先に引き取られていた弟(太平洋戦争で戦死)と共に伯父の家で養子として育てられた。

中学の頃に絵に関心を持って大学は美術科に行き、卒業後は製薬会社の宣伝部に就職。

戦時中中国戦線に出征。現地民向け啓蒙用のビラ紙芝居を作って各地を従軍。補給部隊のため直接戦闘にかかわらず終戦を迎えたが、厳しい飢餓に苦しみ、その後の自身の反戦感情や正義の意味に影響した。

地元高知の新聞社で月刊誌の編集を手掛けていたが、後に妻となる同僚の女性を追って状況。三越宣伝部でデザイナーとして勤務しながら、大人向けのナンセンス漫画(大人漫画)をフィールドに精力的に執筆活動を展開した。漫画で得る収入が給料の3倍を上回ったのを機に30代半ばで専業漫画家として独立したが、タイミング悪く大人漫画の衰退期に重なってしまい仕事が激減。代わりに演劇やテレビ業界のつてをたどって舞台美術家や作詞者、テレビ司会者、放送作家としての仕事が次々と舞い込むようになり、『手のひらを太陽に』の作詞などのヒット作も出している。この頃は絵は誰も知らないのに顔は誰でも知っている(テレビ出演しているから)という漫画家としてはあるまじき事態となり、生活にこそ困らなかったが、漫画家としての成功が叶わない状況に思い悩むことが多かったという。

転機は47歳の時サンリオからイラスト入りの詩集『愛する歌』を出したこと。これが大ヒットし、サンリオから次々と詩集や絵本を刊行して、詩人絵本作家として名が知られるようになった。最大のヒット作『アンパンマン』を生み出したのは50歳を過ぎた時。この時期、雑誌『詩とメルヘン』の編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。アンパンマンが人気作品となった時には既に60歳を過ぎていた

サンリオの辻信太郎社長とは古い付き合い。生前の手塚治虫とは深い親交があり、年下の手塚を先輩として尊敬していた。

晩年

奇人変人も多い漫画界にあって、人柄の良さ、人望の篤さで知られ、日本漫画家協会の理事長を長く務め、戦後日本漫画の主流となったストーリー漫画と並んでカートゥーンの復権に尽力した。

もともと体はさほど丈夫ではなく、初老の頃からしばしば入院していた。しかしそれだけに体調管理には気を配っており、不規則な生活がたたって早世する者も少なくない漫画業界にあって、晩年まで現役であり続ける体力を維持した。睡眠時間を大切にしており、昼食の後は昼寝が日課だった。本人は「俺や水木しげるはよく寝るから長生きしているけど、手塚治虫と石ノ森章太郎は寝ないで仕事したから早死にした」と語っている。

高齢に加え病気を繰り返したため、体力の衰えから一時は活動引退も考えたが、2011年東北地方太平洋沖地震により発生した東日本大震災で、被災者たちがアンパンマンの歌を歌って励まし合い勇気付けられたことや、「奇跡の一本松」の存在に接し、死ぬまで現役を貫くことを決心したという。

訃報

2013年に入る頃には死期を悟り、「俺はもうすぐ死ぬんだ」と冗談めかして公言していた。生前から「清浄院殿画誉道嵩大居士」なる戒名を自分でつけ、仏壇に飾っていたという。

夏に体調を崩し肝臓がんと診断されて入院していたが、同年10月13日午前3時8分、心不全のため都内の病院で死去。享年94。生家の跡地に作られた小公園に妻の暢婦人と一緒に葬られた。

なお、メディアなどではクリスチャンであると紹介されることがあったが、少なくとも晩年はキリスト教の信仰は持っておらず、実際には仏教徒であったようである。

又、高知新聞に月2回のペースで連載されていた自身のエッセイを収録した『オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろ!』の著書の「アイマイ」で「日本人の多くはぼくをふくめて無宗教に近い。」とコメントしている。

また亡くなる一年前の劇場版アンパンマンの初日舞台挨拶では「死ぬのは(アニメ版)アンパンマンが25周年を迎えてから」「25周年映画を作って死ねたらもう何も悔いはない」と公言している。実際宣言通り2013年7月6日に「それいけ!アンパンマンとばせ希望のハンカチ」を公開(亡くなる三か月前ながら初日舞台挨拶にも出席している)、10月3日にアニメ放送25周年を迎えてからその10日後に亡くなっている。ただ、本人はあともう二年は生きたかったそうだ。

関連記事