CV:森繁久彌
概要
鎮西(九州)を領く、巨大な猪神達の王。白い身体に二対四本の牙を持つ。
シシ神の森(多分中国地方の山奥らしい)を破壊せんとするエボシ御前を激しく憎み、その横暴をくい止めるため、一族を率いてやってきた。
齢500歳という高齢もあって目は見えないが、嗅覚がそれを十分補って余りあるほど優れているため、鼻が利く限りは自在に歩き回る。更に、嗅覚以外の感知能力もかなり高く、陰遁の処置を施して渓谷を挟んだ隣の山の森中に潜んで窺っていた人間共に気付き、嗅覚を潰された状態でも一族の毛皮の気配を察知していた。
また、アシタカの右腕の臭いからナゴの守の顛末を汲み取っており、その感知能力共々、アシタカを蘇生させたであろうモロと同じく神性を感じさせる力を持っている。
パワーや防御力も見合っており、高齢ながら長距離を移動し、巨大な岩も楽々と粉砕する。他の猪神達も、ほとんど垂直の断崖を高速走行が可能と、やはり人知を超えた部分がある。
モロの一族とは森を侵す人間を憎んでいる点では意見が一致しているものの、人間への対抗の方針を巡って意見が対立しており、またイノシシの一族が弱体化している事に焦燥感を募らせている。
最後は石火矢を食らって負傷、錯乱してタタリ神に変貌する寸前、シシ神の力によって命を落とした。
性格
猪神全体に言えることだが、よく言えば誇り高い、悪く言えば頑固で融通が利かない性格の持ち主である。とは言え、年の功もあって他の猪たちより器が大きく、他者の意見をちゃんと聞くことも出来る。人間であるアシタカやサンに対しても、彼等の言葉に耳を傾け尊重し、アシタカに対して戦が始まる前に逃げる事を示唆する等、偏見に囚われず心優しい王としての度量をきちんと持っている。
モロの君曰く「少しは話のわかりそうな奴」だが「死ぬと理解していても、猪族の誇りの方を優先してしまう」とのこと。モロとの別れ際には、そんな性格を表すかのように、「たとえ我が一族が悉く滅ぼうとも、人間に思い知らせてやる」と呟いている。
タタリ神に変じてしまった同族・ナゴの守のことを悲しんでいたが、最終的に彼もまた憎しみと死への恐怖からタタリ神になりかけたところは、己の死を恐れつつも悠然と受け入れたモロの君と比べると対照的と言える。皮肉な話だが、どこか人間臭さのある性格の持ち主であったとも言えるだろう。
その一方、多数の一族を率い、食料として人間に狩られかねない一族の危険性に心を痛めているなどモロが持たない苦悩を重ねている。また、自身の故郷ではないはずのシシ神の森を守るために一族もろとも命を懸けて戦った事は事実である。タタリ神になってしまった場面も、猪神達の毛皮を使った「生き物でも人間でもないとても嫌なモノ」に化け、目が見えず嗅覚も封じられた乙事主達を騙して利用するというタブーな戦法を使った人間共への怒りと恨みが爆発し、荒神化させてしまう切欠になったとも考えられる。
余談
監督の宮崎駿は、黒澤明から「時代劇やるんならシェイクスピアがいいよ」と言われていたが、「それは無視しよう」と思っていたらしい。(日本にはシェイクスピアに頼らなくてもいいくらいのお話がある、という理由による)しかし乙事主がシシ神の森で悲劇的な跋渉をする際、声優を務めた森繁に、「全体的に『リア王』のアレでやってください」とお願いしたとの事。
劇中で呟いた「わしの一族を見ろ!みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう…」という言葉は猪に限らず、現代の若い世代へ向けた皮肉という解釈もある。
なお、監督によると「山犬の長・モロと乙事主は、かつて好い仲だった」そうで、アフレコにてそれを匂わせて演じるよう指示している。
モロとの昔の関係、ナゴを九州の猪神達が良く知っていた事からも、乙事主や猪神達は九州と本州をそれなりに往き来していた可能性がある。
名前のモデルは、宮崎が山小屋を作っている、長野県諏訪郡富士見町の地名から。九州は、実際に猪神や神使としての猪への信仰文化が存在する(参照)。
なお、馬や牛、象等もそうだが、猪や豚は実際に海や河を泳いで渡れる。近年ではそうした姿を撮影した映像がSNSやバラエティ番組を通じて公開されることもあり、バハマの泳ぐ豚達も有名。劇中では語られるだけに留まったが、乙事主達が海を越える事は描写的に問題ない。
また、乙事主ほどとは言わずとも人間が森で出くわしたら卒倒しそうなレベルの猪達や豚達は 確かに存在してきた。また、現在の猪も牙の位置がちょうど人間の急所にあり、まるで人間を屠るために適応したかのような何かを感じさせる…。
ちなみに、CVの森繁氏はアシタカの村の長老も演じている。