解説
『もののけ姫』の物語の鍵を握る存在で、無数の動物の様態を持つ「生と死」の自然神である。「シシ神の森」の象徴とも言える存在である。
本作のキーキャラクターであり、シシ神を巡ってエボシ御前たちタタラ場・ジコ坊たち・アシタカ・獣神・浅野公方や焚きつけられた地侍などが三つ巴とも四つ巴とも言える戦いを繰り広げることになった。
普段は単独で行動しているが、時には普通の鹿または鹿神の群れと行動している。
外見
一見すると、大きなシカのような姿をしているが、顔つきはサルを思わせる赤ら顔で、どこか人面にも似ている。しかし、耳はヤギ、目鼻は猫のようで、目の下から頬にかけて青い紋様が入っているのも特徴。また、幾重にも枝分かれした特徴的な角は樹木の枝を彷彿とさせている。
足はダチョウの様だが蹄のついた3本指(シカは偶蹄類なので2本指)で、体格も前身が発達していて猪の様である。そして、カモシカのように長い体毛と小さな犬のような尾を持ち、さながらキメラのごとく様々な動物の特徴が入り交じった霊獣か瑞獣のような姿をしている。
- 「草食動物なのに目が横向きではなく正面についている」事について、ファンの間では「命を捕食するからある意味では捕食者である」からではないかという考察がされることもあるが真相は不明。
- しかし、「ミオトラグス」という絶滅したヤギは正面に目がついていたことが確認されており、テングザルやゴリラなどの例もあり、草食動物でもまったくあり得ないというわけでもない。
- 複数の動物の意匠を持つ鹿、というのはどこかシフゾウをも思わせる様相である。
首を落とされると、その頭部はなぜか通常の鹿により近い外見に変貌し、角も消失こそしないが小さくなってほとんど目立たなくなる。
能力
本作に登場する他の山の神々と異なり、シシ神だけは神話上の神に相応しい摩訶不思議な能力を持っている。
シシ神は生と死を操る神であり、対象の傷や病気や呪いを癒したりする一方で、シシ神の体液に触れたそばから呪いのアザができたり、無差別に命を吸い取るなど大量殺戮をすることもある。なお、命の採取の際には顔の模様が変色する。
- タタリ神も、触れるだけで数多の植物を枯らして小動物を殺し、シシ神の体液と同様に呪いのアザを対象に与えるため、皮肉だが逆のベクトルでより高位の存在であるシシ神に近づいたとも言える。また、乙事主が半タタリ神化した際にも、通常時に失われていた視力が復活したとも取れる描写がされていた(タタリ神の完成体には、なぜか素体と異なる赤い目が発現する)。
能力自体も謎が多く、「血にあらゆる病を治す力がある」「首に不老不死の力がある」「森の化け物たちの総大将」などなど根も葉もない憶測が飛び交ったがどれも正鵠を射てはいなかった。
他にも、水上歩行をする、威光だけでタタリ神の勢いを抑え込む、石火矢の弾が首を貫通しても即座に傷が治る、任意の箇所に植物を瞬時に生やす、地上を歩くと一歩ごとに草が生い茂り、すぐに枯れていく、わずか数秒遭遇しただけのアシタカと甲六の体調が改善する、などの特徴がある。
- アシタカ達を導いたコダマは、シシ神に会わせることでアシタカ達を助けようとしていたとも考えられる。
この姿は人型で、頭から背中に多数の角を持ち、半透明な体には、まるで宇宙や星々や『星月夜』をも思わせる縞や渦巻き模様がある。
森の神であるシシ神とデイダラボッチ、そして「樹の子供」であるコダマがそれぞれ人間に近い姿を持つ点がどこか皮肉的である。
- シシ神は「人頭獣身」であるが、デイダラボッチは「獣頭人身」という姿を持つ。
- コダマの顔とサンの面とシシ神の顔は、どれもどこか土器や旧石器時代の面を思わせる風貌になっている。
デイダラボッチは夜の間森を徘徊し、命を回収しながら森を育て、日の出の前に決まった場所で元の姿に戻る。
しかし、制作陣いわく「夜そのもの」とされる姿のため、この姿で朝日を浴びることはシシ神にとって危険である。
- しかし、「新月の時に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す」とされているので、シシ神にとっては自分が命を与えたり奪ったりすることが日常であるのと同様に、シシ神自身が死ぬことも日常であるのかもしれない。
なお、これほどの神力を持ちながら、宮崎駿曰く「下級の神として描いた」との事である。
- 下級神としてシシ神が存在する一方で、モロの一族や猪神などはどのようなカテゴリーに属するのかは不明である。だが、日本を含むアジアには神使としての狐や鹿や牛や猪や狼などの動物が見られ、鯨や狐や蛇やトカゲや蛙などが修行して、竜や鯨神等に神上がりするという伝承が見られる事から、劇中で見られた他の動物神は「神使または神話級の神に至る前段階の存在」とも考えられる。
ストーリー
アシタカはシシ神の力を借りてタタリ神の呪いを解こうと、故郷と一族を離れて旅に出た。
エボシ御前は良質な鉄を求め、シシ神の森を中心とする山々を狙っている。
そして、都の貴族たちはシシ神の首に不老不死の力があると聞き、その首を欲して地走りの一派をタタラ場に寄越し、エボシと結託する。
ただし、シシ神自身はいわば「森の化身」であり、誕生と死のサイクルを繰り返す生命の摂理そのものが実体を持って顕現したような存在(アシタカの言葉を借りれば「生命そのもの」)であるため、そもそも自我と呼べるものを持っているのかどうかすら不明である。
- そのため、人間だけでなく獣神とも対話が成立せず、劇中では誰一名としてその真意をうかがい知ることはなかった。
エボシに首を吹き飛ばされ頭を奪われた際は、体の方がデイダラボッチの姿に変わりながら頭を取り戻そうと、「黒ずんだ半透明の泥の津波」とでもいうべきものに自身を変化させ、タタリ神の呪いの触手の様に触れた生命全てを無差別に蝕み枯死させるという暴走を始めてしまった。
最終的にアシタカとサンがジコ坊から奪還した頭をシシ神に返したことで暴走は止まったが、デイダラボッチの状態のまま朝日を浴びたため、そのまま倒れてタタラ場や地侍の陣営や森の残骸を吹き飛ばすほどの暴風を起こして消滅した。
しかしその直後、シシ神の暴走で禿げ山になってしまっていた森には再び木々が芽吹き始め、うっすらと緑を取り戻していった。
このときに、アシタカ達の呪いのアザも消え、タタラ場の病人たちの病気も治っている。そんな状況に甲六は、「スゲェ…。シシ神は花咲爺さんだったんだ」とこぼしている。
- つまり、自らの敵対者であるタタラ場の重病人も、(同じく「世の流れの犠牲者」であるためか)救ったことになり、アシタカとサンの行動に免じての救済だったのかもしれない。これ以前にも、アシタカや甲六たちと初対面した際には彼らの体調が改善している。
後ろ足の傷が治ったヤックルもアシタカやサンを迎えに行くため、山犬たちのいる所に駆け付けた。アシタカやサンも目が覚めると、青々とした木々が生える山を見下ろした。だがサンは「甦っても、ここはもうシシ神さまの森じゃない…。シシ神さまは死んでしまった」と消滅してしまったシシ神のことで落胆したのに対し、アシタカはサンにこう応えた。「シシ神は死にはしないよ、命そのものだから。生と死と2つとも持っているもの。私に「生きろ」と言ってくれた」と自分の右手を見つめながら、励ましの言葉を交わしてくれた。
アシタカの言う通り、またいつかどこかで、シシ神が戻ってくれるかも知れない…。
その後、エボシは生き残った人々と共に新たに理想郷建設をやり直すことを決意し、アシタカとサンはそれぞれの場所で生きることを語り合い、森の中でコダマが音を鳴らしたところで物語は幕を下ろすのだった……。そして、このコダマの物語は続いていくこととなる。
モデル
- 国造りの神でありタタラ製鉄の伝承と関連しているダイダラボッチ (森を育む一方で破壊してしまうデイダラボッチや、シシ神と敵対するタタラ場との対比になっている) の他、神遣としての神鹿や雨迦久神などがシシ神のモチーフとして推測されることがある。
- 「人面獣身」の存在は世界各地に伝承があるが、日本国内の伝承にて特に有名なのは件などである。
- 宮崎駿は諸星大二郎の大ファンであることが知られ、『もののけ姫』も影響を受けていることが指摘されている。たとえば、シシ神やデイダラボッチの姿は『孔子暗黒伝』の解明獣や『マッドメン』の巨人に似ており、サンの化粧も『マッドメン』の登場人物のそれと類似性が見られる。
- シシ神が、人間の様な顔をしていながら何を考えているのか想像しにくいのは、宮崎駿が『ネバーエンディングストーリー』のフッフールを見て思いついたという「人知の範疇にない存在が人間のような目をしているはずがない」というアイディアに基づいているらしい。なお、フッフールの名前の由来は、日本語の「福竜」/「福龍」であるとされている(参照)。
考察
- シシ神の名前は「シシ(鹿/猪)」+「神」であるが、死神であり多数の屍を作り出したことから「死屍累々」と関連付ける視聴者もいる。
- 世界最古の叙事詩である『ギルガメッシュ叙事詩』に登場する神獣のフンババも、「キメラ的な姿や巨人の姿で描写される」「聖なる森の守護者である自然神」「息によって生き物を殺す」「森を狙う人間によって斬首された」などの描写がされており、シシ神に影響を与えたのではないかと推測されることもある。
- ダイダラボッチや西洋の巨人等には、堕ちた神や神の子孫などの伝承が見られる。
- ケルト神話に見られるケルヌンノスは「鹿のパーツを持つ人型の神」であり、デイダラボッチの造形に似ている部分があるとも言える。また、ケルヌンノスも「獣の王」や「生と死を司る神」「豊穣を与え再生を促す神」ともされる。
- シシ神の心情は不明な点が多く、劇中では獣と人のどちらの陣営にも肩入れせず中立の立場をとった。
- 最終的にアシタカの呪いはシシ神が解いたが、何故か死にかけていたナゴを助けず、彼がタタリ神と化して多くの自然を破壊したのを放置した理由に関しては不明である。死神としての冷酷な面を見せたのか、ナゴが乙事主と同様に本当にシシ神に救いを求めたのか、それともその余裕すらなく敗走したのか、それともアシタカを呼び寄せるためにわざとナゴを放置したのか・・・。もしかしたら、獣と人を同等の存在として、大自然の一部であると考えていたかもしれない。
- モロの君と乙事主はシシ神の眼前で共に死んだが、これを「タタリ神と化した乙事主へのシシ神なりの救済であり、恋仲だったモロと共に死なせることも温情だった」と解釈する声もある。
- 命を回収し森を育む存在であるデイダラボッチが朝日によって死んだが、これに関して「シシ神ですら自然の摂理には敵わない」つまり「シシ神を抑えられるより上位の神々が多数存在する」という解釈もでき、「生と死の神の本分を忘れて暴走し、自身のために戦った山の神々を含む多数の命を奪って大量殺戮を行ったシシ神へのカルマであり天罰である」と考えるファンもいる。
余談
- ナゴの守の魂が安らぎを得たのか、それともシシ神が自分と一緒にナゴの魂をあの世に連れていったのかは不明である。
- もしそうだとしたら、九州の猪神達が抱いた「なぜシシ神はナゴを助けなかったのか?」という疑問に、ナゴの魂を導くことによって救済するというシシ神なりの答えを出したことになる。
- 「森の再生」という希望を予感させる描写の結末ではあるが、最後のサンとアシタカの会話でのサンの「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない。シシ神さまは死んでしまった」という台詞にあるように、喪われた自然は二度と同じ姿には戻らないというメッセージもまた示唆されている。宮崎駿いわく「蘇った森はもうかつてのような神や精霊が棲む神聖で恐ろしい森(原生自然)じゃない。人の手が入った明るく無害なただそれだけの森(里山)」とのことである。
- 甲六やジコ坊の発言も、一見すると「希望」を感じさせるが、サンのクライマックスの発言は(本来の自然が失われたという意味で)「手遅れ」であることを暗示している。
- ちなみに、本作がアメリカで公開された時は、この展開が「ご都合主義」と批判されたらしいが、それは「もはや二次林でしかなく、原生林は失われてしまった」というニュアンスが伝わっていなかったためだと思われる(参照)。
- 欧米と日本では、「好ましい」自然のあり方の捉え方に違いがあるという説がある。「原生林」を尊ぶ欧米に対して、「里山」を好む日本人というのは時々指摘されている。事実、宮崎は「日本列島は人間がいなかったら本当に美しい島々のはずだった」と過去に著書で述べており、宮崎がジコ坊を「日本人そのもの」と表現した通り、宮崎なりのアンチテーゼがここにもあると思われる。
- この表現は、男性メインキャラクターの声優も同じであり、この作品との関連性も少なくない『風の谷のナウシカ』の墓所の主の発言にもつながる。
- 日本においては縄文人が既に森林の伐採を行っており、日本における古代に消え去ってしまった動物層の最後のメンバーであるヤベオオツノジカとオオヤマネコもこの時代に絶滅したとされる。また、『もののけ姫』の事件が発生した室町時代には、本来の意味での原生林は既に日本から消えていたとされ、宮崎駿も「神話やファンタジーの世界が残っていた最後の時代」としている。つまり、「神殺し」と原生林の消滅は呼応した概念とも言えるだろう。
- シシ神とエボシ御前は、立場も動機も異なるがシシ神の森を破壊し、「神殺し」を行ったという点で共通している(アシタカも、不本意ながら「神殺し」を行った故にアシタカ「ヒコ」ではなくなった)。また、シシ神の化身であるダイダラボッチもまた、エボシ御前が力を注いだタタラ製鉄と伝承上の関連性があることや、エボシ御前のモチーフもいわば「もののけ」であることも因縁的である。
関連イラスト
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河の神:『千と千尋の神隠し』に登場した神。世界中に多数存在する「人頭竜身の姿」を持つ。シシ神とはいくつかの類似点が見られる。両者とも人頭獣身の姿をしており、人間の被害を被った自然界の神々であり、劇中で大きく姿が変化し、主人公達によって助けられ、また、主人公達を直接的・間接的に導いている。さらに、河の神の描写にはナゴの守と類似する部分もある(ナゴの守を参照)。
ゼルネアス:角の形状、鹿がモデルという点からネタにされる。実際、イベルタルとの関係や双方の映画での描写はシシ神のそれらに似ている部分がある。だがこちらはれっきとした人格と知性を持ち合わせている。
アマテラス・イナガミ:歩いた後に草花が生えるなどの共通点がある。
七夜の願い星:メタグラードンの描写など、シシ神とデイダラボッチを意識した描写が目立つ。
大太郎(シャーマンキング):本作のデイダラボッチと同様に、ダイダラボッチを単なる巨人とは異なる姿で描き、霊的で「死」に関連する危険な神霊級の存在として描く事例。フンババの討伐に協力したシャマシュと戦っているという偶然の一致もある。大太郎自体も、「自らの意思ではなく他人によってダイダラボッチにさせられた」「怨念で支配されており、周囲に死をもたらそうとする」「無数の魑魅魍魎によって霊体を構成している」「主人公の命の危機になると出現するが、同時に主人公の命を蝕む」など、ナゴの守(タタリ神)との類似性が散見される。
ヘラジカ:『世界の果てまでイッテQ!』が2016年11月の放送にてフィーチャーして、『もののけ姫』と関連付けた演出もされていたことからも、内村光良や手越祐也などの出演者もシシ神や『もののけ姫』に関連付けた感想を述べていた。ヘラジカも実際に「森の王」と呼ばれ、唾液には植物の育成に役立つ成分が含まれているとされる。また、更新世まではヘラジカもヤベオオツノジカと共に日本列島に生息していた。