魏石鬼八面大王とは、長野県安曇野地域の伝承に登場する田村守宮によって討伐された盗賊団である。
文献によって八面鬼士大王、八面大王、魏石鬼、義死鬼とも記される。
後世に坂上田村麻呂伝説が取り込まれたことで、田村利仁将軍によって討伐されたという物語へと改変され、八面大王は鬼として広まった。
このことから「まつろわぬ民」として大和朝廷に反旗を翻した歴史が、勝者によって書き換えられたなどとするのは俗説となる(後述参照)。
概要
『仁科濫觴記』(にしならんしょうき)によると、神護景雲末(767~770年)から宝亀年間(770~780年)に八面鬼士大王と称する8人を首領とする鼠 (ねずみ)という人々を悩ませた盗賊団がいたが、安曇野の豪族である仁科氏の家臣田村守宮を大将とする仁科軍によって討伐された。
現在、一般的に知られている八面大王の伝承は上述の『仁科濫觴記』が底本であると推測される『信府統記』(しんぷとうき)に基づく話である。
中房山という所に棲む魏石鬼八面大王を称する鬼が人々を悩ませたが、八面大王の討伐を命じられた田村利仁将軍によって大同元年(806年)に兵を率いて八面大王をうち破った。
紅葉伝説
魏石鬼八面大王の妻がもみじ鬼神で、2人の間に産まれたのが金太郎であるとの伝承も残る。
もみじ鬼神は夫である中房山の八面大王と夫婦喧嘩をして飛び出し、潮沢の物見岩に住み着いて八面大王と同じくらい悪事を働いたという。
近年の評価
近年では坂上田村麻呂が蝦夷討伏の道中に立ち寄った安曇野の人々に食料など貢がせ、それを見かねた八面大王が立ち上がったとして八面大王は英雄視されている。
また、大和朝廷にまつろわぬ民として虐げられた大王であるなど八面大王=善、坂上田村麻呂=悪とする形で名誉が復権されている。
しかしこれには異論もある。
古い文献とされる『仁科濫觴記』では田村守宮が八面大王を討伐したとされるが、新しい文献とされる『信府統記』では田村利仁将軍が討伐したと変化している。
田村利仁将軍とは御伽草子『田村草子』『鈴鹿草子』などで語られる伝説上の人物であり、田村麻呂と藤原利仁が融合した大元は『吾妻鏡』の記述と思われるため田村利仁将軍の物語自体は鎌倉時代を下らない。
この事から、本来討伐したはずの田村守宮を、坂上田村麻呂伝説が広まるにつれて新たに安曇野地域の伝説として田村利仁将軍の討伐へと改変、創出したと考えられている。
具体的な例として筑摩神社では「岩清水八幡宮を勧進して八面大王を討伐し、境内にその首を埋葬した」という由緒が残るが、田村麻呂の没年は弘仁2年(811年)であり、岩清水八幡宮が創建されたのは貞観元年(859年)と約50年もの時系列の矛盾があり、筑摩神社が新たに創出された方の伝説を取り込んだものと思われる。
田村麻呂の出征は延暦20年(801年)が最後であり、徳政相論により第4次蝦夷討伏と平安京造営が中止されたため、『信府統記』にある大同元年に田村麻呂が陸奥国へと出征したという歴史的事実がそもそもない。
これらの事から、田村麻呂による八面大王討伐は史実として考えられていないため八面大王=善、坂上田村麻呂=悪を史実とするのは歴史の捏造であり、田村麻呂に対する風評被害である。