概要
旧日本海軍の空母。1933年4月1日竣工、1942年8月24日戦没(第二次ソロモン海戦)。
日本海軍の空母としては4隻目。戦後の資料では記事タイトルのように「軽空母」とされていることが多いが、日本海軍に軽空母という艦種は存在しなかったことに注意。
建造
小さな船体に巨大な上部構造物を載せた、独特と言うよりも無茶の多い設計になっている。この龍驤の設計・建造には、二つの大きな時代背景が影響している。
当時、世界の造船関係者の間では「空母は一発の爆弾が当たるだけで艦載機が次々と誘爆を起こし、最終的に全部が破壊されてしまう」という説があった(後年のミッドウェー海戦などを考えると、あながち間違いとは言えないものであった)ため、「空母は標的になりやすい大型のものを少数建造するよりも、狙いにくい小型・中型のものを多数建造した方が良いのではないか?」という気運が高まっていた。それに加えて、ワシントン海軍軍縮条約で、基準排水量が1万トン以上の空母は合計8.1万トンまでしか建造できないとされたが、1万トン以下は制限外であった(つまり何隻でも建造してよい)。これらの事情をふまえ、龍驤は基準排水量1万トン以下の空母として設計・建造が開始された。
ところが、その後のロンドン海軍軍縮条約で、小型空母も8.1万トンの枠内に含まれるとされた。すでに船体の工事は進んでいたが、貴重な枠を使う以上、少ない排水量で最大限の戦力を求めようということで、一大魔改造が決行される。
それが以下の通りである。
この結果、無理矢理かさ上げされたようなあの逆三角形の艦型に改設計された。
無理な設計変更がたたって、竣工後も転舵すると船体が大きく傾くわ(元乗員曰く「エレベーターから水平線が見えた」らしい)、「第四艦隊事件」(※)で艦橋部分を損傷するわで、低重心化と安全性確保のための改造を受けるはめになった。
また、当時の日本は電気溶接の技術がまだ未熟だったせいで、肝心の防御力が当初より二割減に……
1935年9月26日の「第四艦隊事件」では艦橋を損傷した。
戦歴
こんな遍歴を持つ龍驤だが、いざ本番になると意外なほどに大活躍する。
太平洋戦争では主力6大空母とは違ってミッドウェー海戦などの大規模な海戦に参加することこそなかったものの、緒戦のフィリピン・ベンガル湾・ダッチハーバーなどの作戦で活躍する。
フィリピンのダバオ空爆においては、当時の龍驤に所属していたパイロット達の練度に不安を感じた第四航空戦隊司令によって、戦隊所属の駆逐艦が、龍驤と目的地の間に並び、道標とするというユニークな作戦が取られた。
特に主力空母が真珠湾攻撃で出払っていた頃に、同時進行された南西方面での資源確保では、唯一留守番だった龍驤が活用され、見事これを成功に導いている。
最期の戦いは第二次ソロモン海戦で、この戦いで龍驤は、わずかな護衛と共に本隊から先行してガダルカナル島への攻撃に向かわされた。その意図は、ガダルカナル島を攻撃する龍驤に敵機動部隊の注意を引きつけておいて、そこを本隊の空母(翔鶴・瑞鶴)で叩くというものであり、要するに龍驤は囮であった。(ガダルカナルへ輸送中の陸軍増援部隊支援の為に連合艦隊司令部からガダルカナルのヘンダーソン飛行場を叩くよう第三艦隊は指示されていた。だが、ミッドウェー作戦のようにその空襲に全力を投入すると寝首をかかれる恐れもあり、また参謀長の草加龍之介少将がどちらかといえばミッドウェーの雪辱を果たす事を優先する傾向にあったことから、もしかしたら連合艦隊の命令には龍驤のガダルカナル空襲でお茶を濁し、本隊は敵機動部隊に全力で当たりたいというもので龍驤を囮にするつもりは無かったかも知れない。計画では龍驤艦載機は翔鶴・瑞鶴の戦闘機を補い、第三艦隊の直衛・航空攻撃部隊の護衛としての役割の多くを担う予定であった。もっとも当時の龍驤乗組員などは、ガダルカナル先行攻撃命令は自分達を囮とするものだと認識している。)そして結局、空母サラトガからの艦載機攻撃を受けて龍驤は沈んだ。
龍驤は、第二次ソロモン海戦で沈むまで、いくつもの作戦に参加しながらも無傷という、非常に幸運な艦であった。それまで幸運艦とされていた艦が、囮としての役割を与えられた戦いで沈んだという経緯は、瑞鶴と似ていると言えるかもしれない。
また鳳翔が「帝国海軍空母の元祖」ならば、龍驤は「帝国海軍航空隊の育ての親」という側面がある。
月月火水木金金で有名な海軍でも大変厳しい訓練を課すことでも有名で、「赤鬼青鬼も龍驤の名を聞けば後ずさりする」と言われたほどのスパルタで知られた。とはいえそれに見合うだけの結果は出しており、海軍を代表する飛行機乗りたちの多くは一度は龍驤を経験している。
とくに関衛・和田鉄次郎による艦上爆撃機による急降下爆撃戦法の開拓という側面は非常に大きく、日本帝国海軍航空隊が人外の巣窟となる礎を築いたという意味では、彼女もまた日本海軍史に不可欠な存在だったといえるだろう。