千島列島
ちしまれっとう
概要
北海道の根室半島からロシアのカムチャツカ半島に至る島々。このうち択捉島以南を南千島、得撫島以北を北千島として分ける事がある(更に北千島のうち磨勘留島以南を指して中部千島と呼称する事も)。また、千島列島南端に平行する形で存在する色丹島と歯舞群島を小千島列島(小クリル列島)と呼ぶ事もあり、これと区別する形でロシアでは「大クリル列島」と呼ぶ事もある。
歴史
近代以前より長らくアイヌをはじめとする諸民族が先住していた。18世紀になると千島両端より日本およびロシアの進出が始まり、1855年の日露和親条約締結に伴い国境線が択捉島と得撫島の間に引かれ、南千島が日本領、北千島がロシア領として確定した。その後、1875年に日露両国の雑居地とされていた樺太を全島ロシア領とする事となり、見返りとして北千島が日本に編入される事となった(樺太・千島交換条約)。
太平洋戦争勃発後はアメリカ軍の北方からの侵攻ルートとなりうる事から幌筵島をはじめとして要塞化が行われた。1945年8月にヤルタ協定に基づいてソ連が日ソ中立条約を破棄し千島方面への侵攻が開始され、9月2日の日本の降伏文書調印に伴い日本軍が全面降伏するまでの間に国後島を除く全千島列島がソ連軍の占領下となった(国後島も翌々日にはソ連軍に完全制圧されている)。
北方領土問題
ソ連軍による制圧以降、千島列島はソ連及び後継国家であるロシア連邦の統治下に置かれている。現在、ロシアは千島列島全土をサハリン州に所属する自国領とする立場にある。
一方、日本はサンフランシスコ平和条約に基づき千島列島の領有権を1951年に放棄している。ただし、条約締結時は領有権を放棄する範囲を南千島を含む全千島列島としていたものの、1956年の日ソ共同宣言時以降はこれを撤回、樺太・千島交換条約以前より日本領であった南千島の択捉島および国後島の2島については引き続き日本領とする立場を取る事となった。またソ連がサンフランシスコ平和条約に調印していない事、現在においても日露間に平和条約が締結されていない事から、日本は北千島についても国際法上帰属先未確定としている(ただし現在北千島の領有権を主張しているのはロシアただ一国のみであり、日本も国際的解決手段に基づいて帰属先を確定すると主張している事から、将来的に平和条約締結後には日本が北千島を正式にロシア領として承認する可能性は否定されていない)。
同じく戦後ロシアの実効統治下にある小クリル列島についてはロシア側も日ソ共同宣言に基づき「平和条約締結後には日本に『譲渡』する」としているものの、南千島については現在も日露双方の主張が食い違い平行線を辿るままとなっている状況である。
主な島
以下、島名は「日本名/ロシア名」の形で併記する
北千島
以下、中部千島ともされる島々
- 磨勘留島/マカンルシ島
- 温禰古丹島/オネコタン島
- 捨子古丹島/シアシュコタン島
- 松輪島/マトゥア島
- 新知島/シムシル島
- 得撫島/ウループ島