概要
占守島は千島列島北東端に位置し、北東の千島海峡(占守海峡)を隔ててカムチャツカ半島と相対する。幌筵島が南西に、阿頼度島が西北西に位置する。
南西から北東に約30km、北西から南東に約20kmほど。海岸線は西部の別飛沼付近を除き崖が多く、岩礁が連なる。島の大部分は標高100~200mのなだらかな丘陵で、沼地や草原が広がっている。島名の由来は諸説あるがアイヌ語であることは確かで「シュム・ウシ(南西に在る)」が有力。
かつては千島アイヌが居住していた。18世紀になるとロシアの進出が始まり、占守島を含む北千島はロシアの支配下に入った。その後、1875年に樺太・千島交換条約が締結され、得撫島から占守島までの18島が日本領になった。この時、占守島に住んでいた千島アイヌは色丹島に強制移住させられた。その後しばらくは無人島だったが、1899(明治29)年春に、元海軍大尉の郡司成忠率いる「報效義会」のメンバーが入植した。入植事業自体は失敗したが、北洋漁業の拠点として発展し、大正期には南西部の片岡という集落を中心に約1000人(夏季の人口)が住んでいた。行政区画上は北海道(千島国)根室支庁占守郡に属していた。
1945(昭和20)年8月には「占守島の戦い」の舞台ともなり、ソ連に不法占拠された。現在はソ連の継承国であるロシア連邦の実効支配下にある。今でも戦車やトーチカの残骸などが残っている。
日本領であった時代は南鳥島よりも東にある日本最東端の島であった(第一次世界大戦後に獲得した委任統治領を除く)。