中国と朝鮮戦争と核兵器と
力の象徴=核兵器
中国には、アヘン戦争以来の植民地化がトラウマのように刻み込まれており、辛亥革命で王朝を打倒して以来、二度と外国の影響に置かれないように「強大な力」の保持には心を砕いていた。そして昭和20年、広島・長崎へ核兵器が投入されると、毛沢東はこれこそが中国独立の担保になると考え、保有を目指すようになったといわれる。
ただ、いくら欲しくても『核兵器の作り方』なんてそうホイホイ教えてくれるようなモノではなく、今から研究を始めるにしても、実を結ぶまでには大分長い時間が必要そうだった。
毛沢東vsソビエトwith核兵器
そんな流れが変わったのは朝鮮戦争で、1953年にはアイゼンハワー大統領が核兵器投入を仄めかしたことにより、ソビエト(1949年に核兵器の開発成功)へ技術協力を求めるようになる。こうして「中ソ友好同盟相互援助条約」は締結された。しかし核兵器に関する供与は全くナシ。スターリンは(当然ながら)ひたすら核兵器を欲しがる毛沢東を信用しておらず、戦争を理由に核兵器の秘密を明かすくらいなら、その戦争を終わらせた方が良いと考えていた。
朝鮮戦争は戦術がどうこうというよりも、こうした観点で見れば、毛沢東に核兵器を持たせないため早々に終結する予定だったのだ。しかし、いざ終戦という矢先にスターリンは死去し、以降のソビエトは「ハト派」に分類できるような穏健派のニキータ・フルシチョフが指導者の座についた。そして、このフルシチョフは(アメリカとの平和共存のためにも)朝鮮戦争終結を目指す事には変わりなく、従って戦争継続⇒危機を煽って核武装を狙う毛沢東にとっては、いささか都合の悪い相手だった。
そこで毛沢東は「戦争終結」を人質にとって、フルシチョフとの交渉に入った。
結局どうしても戦争を終わらせたいフルシチョフは折れ、核兵器はまだ「おあづけ」なものの、結果的には大規模工業化計画を中国に渡すことで、終戦への同意を得られた。
本当はその裏にアメやらムチやらいろいろあったのだが、ともかくこれで毛沢東は中国が軍事大国となる「原資」を手に入れた。「第一次五ヵ年計画」の始まりである。こうして朝鮮戦争後の軍事力再整備を急速に進めた中国は、翌54年に台湾進攻を企図し、アメリカとの対立を鮮明にしていく。しかし、これもハト派のフルシチョフにとっては不都合な事で、同10月1日には訪中して交渉し、15もの企業売却(当然、軍需関連・核関連企業だろう)と多額の借款と引き換えに、ようやく手を引かせた。ついでに毛沢東はついに原子炉建設計画への支援を取り付ける。
ウラン鉱脈発見! ~中国、いちやく核戦争の一角へ~
核武装に向けて徐々に道筋を付けていった中国だったが、にわかに追い風が吹いた。
1955年1月、江西省にてウラン鉱脈が発見され、核兵器の実現性が一挙に高まったのである。
毛沢東はここに核兵器、ならびにその運搬手段の開発を指示し、本格的な核武装が始まった。同時にフルシチョフからはサイクロトロン・原子炉など先端科学研究施設の建設も取り付け、事態は急速に進行しはじめていた。核武装さえ出来ればソビエトはもう用済み。毛沢東はソビエトから搾れるだけ技術を搾り取り、独自開発に目途が立ったら切り捨てるつもりになっていた。
1956年には、アメリカを追放された中国系科学者を筆頭にロケットの開発研究所を開き、本格的なロケット開発が始まるようになった。1957年はフルシチョフ体制がクーデターで動揺し、この安定のために周辺国へ体制の地盤固めに協力を求めた。もちろん中国が求めたのは技術協力で、今回はさらに弾道ミサイルの実物も供与された。こうなると後は原子力潜水艦が欲しいだけになった。1959年には再び台湾との軍事衝突を起こし、手を引く見返りにフルシチョフから原潜の技術協力を取り付けた。
信用と裏切りと ~世界に平和をもたらす共産主義が、むしろ戦争の火種を作った時~
しかし、もうそろそろ限界だった。
欲しいものが出る度に軍事衝突を起こし、要求ばかりが度重なった結果、フルシチョフは毛沢東を信用しないようになった。アイツら貰うばっかりで何もしてくれやしない。挙句にこちらの邪魔ばかり。そろそろ思い知らせてやれ!
毛沢東の側にしても、知りたい事は大概知った訳だし、発展の道筋は付けた。もうソビエトばかりに威張らせない。イケ好かないこと(=スターリン主義否定など)ばかり押し付けて、上から目線なのも気に入らない。もう離れてもいい頃だろう。第一「平和共存路線」って何のつもりだよ、世界同時革命はどこ行ったコラ!
1950年代末期、こうして両者が一様に不信を募らせ、また1956年にはフルシチョフがスターリン批判から平和共存戦略を始めるなど、レーニン主義(毛沢東)と修正主義(フルシチョフ)が衝突して、中ソ対立が表面化し始めた。これは1960年の「レーニン主義万歳」発表により決定的となり、ここに同じ共産主義国だった中国とソビエトは、別々の道を歩むのである。
(技術面は除く)
「使えない」もの ~1万円札はあっても10円玉が無い件にも似て~
1964年、日本では東京オリンピックが開催されるこの年、中国ではMiG-21のライセンス生産に成功し、1966年には初飛行に漕ぎつけた。しかし当時の航空技術は文字通りの日進月歩であり、毎年のように飛躍的進歩を遂げていた。せっかく初飛行した中国版MiG-21(J-7)だったが、完成時点で6年前の戦闘機であり、完成した時点で既に時代遅れであった。
そんな事はもちろん空軍上層部も分かっていたのだが、唯一「色々と参考になりそうな事を教えてくれそう」だったソビエトとの縁は、1956年以来の対立でもう修復不可能なまでになっており、また共産党の指導により、軍は通常兵力よりも戦略核戦力に重点を置いて拡充に努めていた
自主自立を担保するために核兵器の整備を急いだのだが、これは戦闘機を始めとした通常兵力拡充の面で見れば悪手だった。
つまり、『とても現代戦で勝てるとは思えないが、とりあえず核兵器は持ってる』という訳で、手出し無用・放置安定の相手と見なされた。何せ当時の核戦略といえば「核大量報復戦略」であり、これはナニをしようともされようとも、全面的核戦争で対抗するしか無かった訳で、これでは政治的にはアクセル全開・ブレーキ全開の二つしか無いようなものだったのだ。ましてや通常兵力そっちのけで核戦力整備に全額振り込んだ中国である。
当然、積極的に仲良くしようなんて思う指導者なぞ居ようはずもなく、第一フルシチョフも縁切ったばかりではないか。世界は中国だけで成り立つ訳ではないから、これはちょっとマズかった。
何が何でも戦争で救われる国
なお、中国が戦争によって外交的地位を確保しようとしたのはこれ以降も続き、イギリスのマレー半島介入に対する牽制のためにインドネシアを支援しようとしたり、または1950年代から始まった有名な「チベット侵攻」、それに続く中印国境紛争など、好意的に見れば(日本がそうだったように)中国が国際社会の中で位置を築こうとする努力は続いた。
しかし、これと引き換えに周辺国の中国に対する態度は悪化し、インドもこれ以降核開発へ乗り出すようになる。台湾(国民党)への武力干渉も断続的に続き、核武装したちょっとヤバげな国というイメージで語られるようになってしまった。これが払拭されるのは1990年代、天安門事件を日本が最初に許して以降となるが、こうしたイメージはソビエトに対する「鉄のカーテン」になぞらえて、『竹のカーテン』と呼ばれた。
「ダブルちくわ戦闘機」の登場
足りないもの
かくして早々に核兵器は配備した中国であったが、その他の部分は全く追いついていなかった。
例えば超音速戦闘機。最も目立つものであるが、中国には無かった。一方当時はアメリカから潤沢な支援を受けていた台湾は、1958年以降F-100の配備を進めており、その点MiG-15しか無い中国は多いに見劣りしていた。
何とか超音速戦闘機をモノにしたい。
しかし、独自開発しようにもアテが無く、そもそも航空機の製造すら初めてのことである。
という訳で、頼れるものはソビエトだけだった。
関係が悪化する中でも必死に(しかし下手に出ない程度で)頼み込み、1961年にはMiG-19、引き続いてMiG-21の生産権利を獲得する。そして中ソ関係はこの間にも容赦なく冷え続け、何も学ばない内に技術指導のソビエト技師は帰国してしまった。
それから先は、残された図面・見本部品をもとに製造法を割り出し、一つ一つ作っては評価するという地味で地道な作業が始まる事になる。そんな中も社会は1958年~1962年の「大躍進政策」で混乱し、さらにこれで一度は失脚しかけた毛沢東が復権を図って「文化大革命」を主導した。さらに中国社会は輪にかけて混乱し、また「紅衛兵」という狭隘な思想団体も生まれ、これがナチス親衛隊同様に暴虐を働き、更に思想の先鋭さを競って仲間内で闘争を始める始末だった。これは『革命は暴動』とまで言い切った毛沢東でさえ、さすがに看過できるものではなく、こうした者達を引き離す意味でも「下放」が行なわれた。そして昨日までインテリ生活を送っていた者達に、ましてや大躍進で荒れ果てた地方での生活は過酷であり、ここでも多くの死者を出している。
これでは最新鋭戦闘機の開発なぞやってられるものではなく、更に開発メンバーでさえ「反革命」のレッテルを張られて追放される始末だったので、作業は遅々として進まなかった。遅れのための繋ぎだったJ-12ですら遅延で中止される有様で、J-7が初飛行した頃には1964年になっていた。ソビエトではこの年MiG-23やMiG-25の開発が始まっており、もはや綺麗に一周以上遅れてのスタート地点だった。
J-7で至らなかったもの
ソビエトのMiG-21は火器管制能力こそアメリカ機に劣るものの、J79に迫る高出力と軽量さによりF-4すら上回る空戦能力を誇る。
しかし、戦場とは戦闘機同士がクルクル回って競争する場ではない。MiG-21は格闘戦用戦闘機としては優れていたものの、高高度戦闘能力は不足していた。1950年代末期はU-2のような高高度偵察機が実用化され、しかもソビエトには追い付ける戦闘機が無かった。見張られていることは分かっていたが、対空ミサイルは無く、戦闘機もはるか手前で息切れしてしまう。全く手出し出来なかったのである。
そこで時代は高度20000m以上に到達できる戦闘機を求めた。
それがソビエトではMiG-25だったのだが、中国が作り上げたのがこの「J-8」である。
といっても、ソビエト最新技術に接することはできず、1962年時点でようやく知ることができたのはYe-152Aの公開写真くらいだった(1961年初飛行)。高性能化の答えが双発化とはいささかワザとらしい気もしただろう。ソビエトでは結局Ye-152が「研究用」の域を出る事は無かったが、中国の技術陣はこれに飛び付く他なかった。
「フィンバック」登場せり
こうして完成したJ-8はYe-152とも少し違い、J-7を双発化しただけのような姿になった。一見ではJ-7と見間違う程よく似ている。双発化により胴体は大型化し、それに見合って主翼も大型化した。
競争開発相手は成都J-9で、こちらは新型エンジンにカナードデルタを採用した。しかしエンジン開発に失敗し、従って完成することは無かった。