平安時代後期の公卿・政治家。(1078年 - 1162年7月31日:応保2年6月18日)
藤原摂関家の嫡男として生まれたが若くして父の師通が急逝したため、ただちに摂関の地位を嗣ぐことができず、さらに院政を敷いていた白河法皇に圧迫され摂関家の地位低下を招いた。
白河院政末期に一時逼塞させられていた間に嫡男忠通が関白に就任していたが鳥羽上皇が院政を開くと忠実も復権を果たし、これが父子間の対立の芽となる。さらに逼塞中に生まれていた次弟頼長の存在も絡み、摂関家の内部対立は激化していった。これが最終的には鳥羽法皇の崩御直後、1156年(保元元年)に保元の乱として爆発することになる。
乱後、忠実は奈良に逃亡したが敗走途上で負傷した頼長が頼ってきた際には面会を許さず追い返す。
(面会すれば頼長・崇徳上皇方に連座させられることとなるため)
摂関家所有の膨大な所領の確保のためもあって忠通が奔走した結果、忠実は罪には問われなかったが洛北知足院に幽居を余儀なくされた。そのまま同地で7年後に病没。
政治的には挫折の多い生涯であったが、院政期に至る過程で削られた摂関家の財政基盤(荘園等の所領)の再建強化には実績を残した。保元の乱の後忠通が継承したそれが、後年の五摂家へ引き継がれていくことになる。
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坂上宝剣:若い頃に抜いてみせた朝廷守護の宝剣。