概要
アショーカ(अशोक:Aśokaḥ:無憂)は紀元前3世紀、仏滅後100~200年頃にマウリヤ朝マガダ王国(マウリヤ帝国)の3代目の君主として、十六大国と呼ばれた当時の古代インドをほぼ統一した史上最初の人物である。
漢字文化圏では「阿育王」(音訳)や「無憂王」(意訳)、英語圏では「Ashoka the Great」(アショーカ大王)と呼ばれることもある。
その出自は父王ビンドゥサーラとその剃毛師にしてバラモンの娘ダンマーとの間に生まれた子であり、彼自身はアサンディーミトラ、カールヴァキー、デーヴィーを妃とした。また彼にはヴィータショーカ(離憂)という弟がおり、前世でも徳勝・無勝という名の兄弟として釈迦仏を供養して来世に帝王となる予言を受けたという仏説もある。
壮年期には武断的な暴君として恐れられたが、隣国カリンガ王国を滅ぼしてからは改心して人道と平和を掲げるようになり、宗教的・哲学的な理念に基づいて帝国と臣民を安寧に導こうとした。その生涯で覇王と聖王のどちらも経験したことがある珍しい帝王である。
特に仏教界からは、仏教の守護者にして俗世を統治すべき理想の君主――転輪聖王(てんりんじょうおう)――の筆頭として讃えられている。
しかし帝国の広大さ(東はブータン・バングラデシュ~西はパキスタン・アフガニスタン)、インドや仏教界での英雄的な扱いに比べて日本での知名度はイマイチ低い。
※以下、本文には伝説的な表現もそれなりに含まれています。
覇王としてのアショーカ
アショーカは国王と正室との間に生まれた王子であったが、父王ビンドゥサーラとの親子仲はすこぶる悪かったといわれている。
ある時、タキシラ地方で大規模な反乱が起こった際にはビンドゥサーラ王から「ちょっとおまえ一人で鎮圧してこい」という無茶振りをされてしまうほどの不仲であった。
アショーカの従者は「一人で何をどないせえっちゅうねん…」と王子の身を心配したが、当の本人は悠然としながら「余が王者としてふさわしい善根を持つならば、諸天神によって武器と軍隊を恵み賜わるであろう」と天を仰いだ。
すると神々はアショーカの善根に応えて大地を裂き、その中から無数の武器と軍隊を湧き出させてこれを与えたという。どこかで聞いたことがあるような技を紀元前に思いつくとかさすがインド。
これを聴いたタキシラの民はアショーカを歓呼で迎えて、「我々(タキシラ住民)にはマウリヤ王朝に逆らう意志などありません。ただ我等を不当に苦しめる悪代官を成敗しただけであります」と述べてアショーカに服従。そのままアショーカはタキシラの支配権を得たのだった。
またインド中央南西のウッジャイン地方の反乱鎮圧の際にはアショーカ自身も負傷してしまうが、このときに手当てをしてくれた商人の娘デーヴィーと結婚する。
ビンドゥサーラ王は不予に伏すと第一王子スシーマを後継者に儲けることを決める。これを知ったアショーカは王都パータリプトラに進軍、王太子スシーマを討ち取った挙句、その他の対立した異母兄弟達も殺すことで王座を獲得(簒奪)した。また混乱によって即位の儀を催すことができなかったこと等を理由にアショーカを軽視するようになった官吏達を処刑してしまう。…善根って何だっけ。
王となったアショーカは暴君として古代インドに君臨を果たし、圧倒的な武力で領土を拡大、古代インドで最大の統一国家を築くと同時に、アショーカの軍が通った土地は劫火に焼かれ草木一本も残らないと恐れられるまでに至った。
カリンガ戦争
アショーカの覇王としてのあり方に終焉をもたらしたのはインド東岸部のカリンガ王国との戦争である。
カリンガ王国はアショーカの祖父チャンドラグプタ王の時代から何度もマウリヤ帝国の侵攻を阻んできた大国であり、インド亜大陸を統一するにあたっての最大の障壁とみなされていた。
アショーカ王治世9年頃、アショーカはマウリヤ帝国軍40万の大軍を率いてカリンガへの南下を決行する。これに対してカリンガ王国軍は歩兵6万人、戦車1000両、戦象700騎という戦力で果敢に応戦した。
大国同士の全面戦争は凄惨を極め、カリンガ王国軍は戦士のみならずバラモンや民間人を含めて15万人以上が死亡、マウリヤ帝国軍も10万人以上の戦死者を出した。主戦場となったダヤー川流域は血と炎で赤く染まっていたという。
この戦いは、数々の戦場や闘争を踏破してきたアショーカにすら深い後悔と自責の念を刻むことになる。
聖王としてのアショーカ
カリンガ戦争を経たアショーカは、武力による支配のありかたに疑問を抱くようになり、理性と正義に基づく「法(darma)の統治」を掲げるようになる。
まず諸宗教や諸哲学派を保護・推奨するようになり、アショーカ自身もとりわけ仏教を信奉した。待遇上は他宗への配慮も欠かさず信教の自由も認めていた。
一般市民に対しても、一里塚や水道の整備、街道の植樹、人畜のための病院や給水所・休憩所を施し、人々にも礼儀を重んじることや父母・年長者・バラモン・出家者といった者達を尊敬すること、貧民や奴隷を哀れみ他人への配慮に努めることを勧めたのだった。
仏教政策
アショーカは当時八箇所の仏塔に安置されていた仏舎利を取り出してこれらをさらに分骨、八万四千箇所ともいわれる膨大な数(「八万四千」は仏典でよく見る大まかな表現)の仏塔を建ててそこに再び安置した。また分裂期を迎えていた仏教教団を諌めつつ、王都パータリプトラに仏僧1000人を招来して教法や戒律の整理をする第三結集を開催した。
対外的にも、王子マヒンダを始めとする伝道僧をスリランカやギリシア世界に派遣して仏教を世界に広めることに貢献した。昨今、仏教がアジア各地に伝播して世界三大宗教の一つにまでに数えられるようになったのはこのときにアショーカが主導して築いた基盤の賜物だったりする。
こういった世俗・宗教の双方に対する多大な功績によって、アショーカは後世に転輪王として讃えられるようになったのである。
アショーカの死と帝国の滅亡
しかし古代の経済基盤での各方面への支援活動や軍事力削減が国力の低下を招いてしまったのか詳細は不明だが、アショーカは晩年に幽閉されてしまっており、そのまま紀元前232年にタキシラで没する。
アショーカ亡き後のマウリヤ帝国は王族や将軍が王位を争って分裂・縮小。紀元前180年頃には最後のマウリヤ王ブリハドラタが臣下の将軍プシャヤミトラの下克上によって討ち取られマウリヤ王朝は滅亡、新たなシュンガ王朝に取って代わられることになる。
アショーカの遺跡
- アショーカ王碑文
アショーカ王は人々に法に遵って生きることを勧め、またマウリヤ朝の子孫達に戦争の過ちを犯させないために、自らの理念や警告を帝国各地の柱・石碑・岸壁などに刻み込んだ。
このアショーカ王碑文は主として人通りの多かった通商路に施された関係上、俯瞰するとマウリヤ帝国の全域を囲むような配置になっており、上記の仏塔と併せるとさながら帝国全土に張り巡らされた超巨大な宗教結界のように見えなくもなかったりする。ただし宗教に直接関係ない政治的な碑文もある。
そもそも古今インド文化圏では「口伝」という情報伝承技術を神聖視する傾向があり、文字で歴史や伝説を伝承するという事をあまり重視してこなかった。そのためこれらアショーカ王碑文はインド史上最古級のまとまった文字文献資料の一つであり、考古学的・言語学的・宗教学的な価値が極めて高い。
- アショーカの獅子柱頭
アショーカ王のシンボルとして有名な意匠が「アショーカの獅子柱頭」と呼ばれる柱頭彫刻である。旧マウリヤ帝国領のほか、後世にはこれを模したものが各国の仏教関係の土地に施設されていることもある。
これは上から順に以下のように構成されている。
- 四方を向く獅子(インドライオン)の像
- レリーフ(駿馬・象・雄牛・獅子の間に「アショーカチャクラ」と呼ばれる法輪)
- 蓮の台座
もっともすべてがこのような構成というわけではなく、中にはライオンが一頭しか乗っていなかったり、ライオンの頭に法輪が乗っているという遠目に見ると魔法のステッキのような見た目のものもある。
獅子柱頭のうち、特に釈迦仏降誕の聖地ルンビニーで発見された獅子柱頭の柱に刻まれていた文は、ゴータマ・シッダールタが実在した人物であること、また彼がルンビニーで生まれたことを裏付ける決定的な証拠となった。
現在のインド共和国もこの意匠を簡略化したものを国旗の一部や国章として採用している。これはアショーカ王がインド史を代表する名君であることを物語っているといえよう。