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伊勢湾台風の編集履歴

2019-09-13 02:30:20 バージョン

伊勢湾台風

いせわんたいふう

昭和34年9月に発生し紀伊半島から東海地方を中心として、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風。特に愛知県・三重県の伊勢湾沿岸地域の被害が特に甚大でありこの名がついた。

概要

昭和34年台風15号、国際名ヴェラ。1959年9月26日に和歌山県潮岬に上陸した台風。特に伊勢湾沿岸での被害が大きく「伊勢湾台風」の名称がついた。

人的被害は、紀伊半島の和歌山県、奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県を中心に死者・行方不明者合わせて5,098人、経済被害は全国で破格の規模となり明治維新後の日本で最大の被害をもたらした自然災害である。犠牲者を3,000人以上出した台風として、室戸台風枕崎台風とあわせ昭和三大台風の一つに数えられている。


ほぼ全国に及んだ経済的被害は人的被害以上の規模となり、GDP比被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵するもので、2011年の東日本大震災との比較対象に達するものであった。


災害対策について定めた法令である「災害対策基本法」はこの伊勢湾台風をきっかけに制定されたもので、2013年に運用の始まった特別警報も台風については伊勢湾台風クラスを基準としている。

発生から消滅まで

1959年9月20日、マーシャル諸島エニウェトク環礁付近で1008ミリバール(当時の気圧の単位。現在のヘクトパスカルと同じ)の弱い熱帯低気圧(当時の用語)が発生した。発生後は西に進み、21日にはサイパン島の東を北上しながら次第に発達し、21日21時には1002ミリバールの台風第15号となって、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。発生から2日後の9月22日9時には996ミリバールだったものが同日15時には970ミリバール、翌23日9時には905ミリバールにまで発達した。発達はこの後も続き、23日15時にはアメリカ軍の気象観測飛行機により894ミリバールを観測している。


台風第15号はその後も勢力が余り衰えることなく、9月25日昼頃まで900ミリバール前後の猛烈な勢力を保ち、進路を北西から次第に北に転じて26日9時には潮岬の南南西400kmに達したが、その時でもなお中心気圧920ミリバール、最大風速60 m/s、暴風雨圏は東側400km、西側300kmという、猛烈で超大型の台風であった。


台風は26日18時過ぎ、930ミリバールの勢力を持って潮岬の西15km付近に上陸した。6日朝までの進行速度は毎時30km以下であったが次第に加速し、上陸後は60km~70kmで紀伊半島を縦断。中央高地を経て27日0時過ぎに日本海に抜けた頃には毎時90kmにまで達している。27日9時前後に秋田沖に進んだ中心は次第に消滅し、青森県の日本海上に新たな中心が生じる「ジャンプ現象」が発生した。


ジャンプ現象を起こした後、台風は東北東進し27日21時に北海道の東で温帯低気圧に変わり、東太平洋にまで達して10月2日に消滅した。


気象庁が伊勢湾台風と名付けたのは9月30日のことで、伊勢湾沿岸の高潮による大災害を由来としている。

伊勢湾台風にまつわる逸話

  • 太平洋戦争による空襲で焼失した名古屋城と金の鯱が伊勢湾台風襲来直前に再建されたが、名古屋の高潮災害は金鯱のせいではないかと言う話が台風後に市民の間でささやかれた。もともと鯱には水を呼ぶ力があると言い伝えられ、火除けのために城の屋根に付けられるようになったのだが、それが結果として水害も呼んだと言われるようになったというわけである。
  • 現在の東海ラジオの前身である近畿東海放送とラジオ東海は伊勢湾台風襲来以前から名古屋進出を模索し、両社の合併を条件に名古屋進出が認められたが、名古屋本局の予備免許が出た当日の夜に伊勢湾台風が本土に上陸した。台風被害に遭い報道の強化を痛感した両社は合併準備を加速させ、1959年11月20日に両社は新設合併し、東海ラジオとなった。ただし東海三県で海に面していない岐阜県は地域事情が違うとして別の県域中波局を求める運動が起こり、後の岐阜放送開局に繋がることとなる。
  • 台風襲来により名古屋市内の工場群も浸水による被害を受けたが、その中で住友金属工業名古屋工場だけは比較的早く水が引き9月29日には操業を再開した。これは室戸台風で自社の工場が浸水被害を受けたことを教訓に、名古屋工場建設時に土地を嵩上げしたのが功を奏したが、それが結果として工場周囲の濁流の流速を速めることとなり、世論の批判を受けることとなった。
  • 当時の近鉄名古屋線大阪線山田線と軌間が異なり、伊勢中川駅での乗り換えを必須としていた。そのため予てから名古屋線では改軌工事を計画し。一部では工事に着手していたが、工事準備中に伊勢湾台風が襲来した。だが台風襲来直前に完成した新たに建設した鉄橋(長良・揖斐川橋梁は襲来1週間前、木曽川橋梁にいたっては襲来当日に新橋に線路を切り替えている)に被害が殆ど見られなかったことから「災害復旧と改軌工事を同時進行で行う」という決定を下し、1959年11月27日に改軌工事を完了させ、運転再開となった。
  • 近鉄名古屋線同様浸水地域を通過する国鉄関西本線名鉄尾西線常滑線の復旧も1959年11月までずれ込んだ。ちなみに名鉄常滑線は水上に仮線を敷設することで仮復旧し、水上を3400系が走行する写真が今も残されている。この時の景色は後に千と千尋の神隠しに登場する海原電鉄のモデルになったと言われている。
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