初代春雨(春雨型駆逐艦)
初代春雨は1900年度計画により横須賀海軍工廠で建造され、1902年3月1日起工、1902年10月31日進水ののち1903年6月26日に竣工した。
前級にあたる白雲型駆逐艦や暁型駆逐艦までの駆逐艦は海外製(主に英国製)だったが、本艦は日本の駆逐艦として初めての国産となった。
日露戦争従軍中の1904年10月11日、旅順沖で触雷し士官室から後方の船体を喪失し、呉工廠で建造中の同型7番艦霰の後半部分を接合する工事を同年11月29日から着手し、翌1905年1月7日に修理完了して復帰。のち日本海海戦にも従軍している。
1911年11月24日、志摩半島にて擱座・沈没し、翌年12月28日付で除籍された。
2代目春雨(白露型駆逐艦)
舞鶴工廠で1935年2月3日に起工、1937年8月26日に竣工。白露型の中では時雨の次に竣工が遅かった。「村雨」「夕立」「五月雨」の所属する第2駆逐隊に編成される。同隊は1940年に第2艦隊・第4水雷戦隊に編入された。
2代目春雨の戦歴
第2駆逐隊としてスラバヤ沖海戦などのフィリピン方面の攻略作戦に参加。1942年6月のミッドウェー海戦にはミッドウェー島攻略部隊として第2艦隊が出撃したものの、ミッドウェー海戦での一航戦・二航戦全滅により同島攻略を断念せざるをえなかったのだ。第2艦隊は残存艦隊と合流して撤退し、戦争の主導権は米軍が握ることとなってしまった。その後、トラック・ソロモン方面に進出し輸送作戦に従事。このあたりで村雨は別行動をとるようになった。同年10月24日、由良、秋月、夕立、五月雨と共に第二攻撃隊としてガダルカナル島ルンガ泊地に突入。
米爆撃機による攻撃を受け反転撤退するも、B-17が投下した爆弾により由良航行不能・秋月中破・五月雨小破と損害を被った。そして、夕立と共に、由良の雷撃処分を行った。
1943年1月、貨客船「浅間丸」を護衛してトラックに到着、第二航空戦隊隼鷹航空隊の基地員をウェワクへ輸送、その後も幾度かカイリル島を拠点に護衛任務に付くことになる。基地員収容のためにトラック・ウェワクを往復中に米ガトー級潜水艦「ワフー」に捕捉され、魚雷3本を撃たれるもののこれを回避した。
春雨は反転して対潜戦闘に移り、続いて撃たれた1本を避けたが3射めの2本のうち1本が一番砲直下付近に命中する。
ワフーは敵駆逐艦撃沈を確信したが、春雨は応急修理によって沈没を免れ、ウェワクからトラックへ曳航後に天津風、浦風に護衛されて横須賀へ曳航されることになったが、艦体が分断し艦橋から前部を失い、いったんトラック泊地に戻り再度修理が行われた。この間、3月5日に村雨が夜間輸送任務中に米艦隊のレーダー射撃を受け沈没している。
1944年1月、時雨と共に給糧艦やタンカーの護衛を行いながらトラック泊地に向かい、途中で神風(II)型駆逐艦「追風」と合流する。2月14日にトラックに到着するが、主力連合艦隊は空襲の報を受けてパラオに退避した後であり、明石などの補助艦艇が残るのみとなっていた。2月17日、トラック島空襲が発生。那珂や舞風、文月、追風などが撃沈される中、時雨・春雨はトラックからの脱出を図るが、時雨は直撃弾を浴びて中破し、速力が低下した。 駆逐隊司令を春雨に移し、春雨は明石の護衛を行い、時雨は単艦でパラオに向かうことになった。
5月下旬より、渾作戦に従事し、再編以降バラバラになっていた第27駆逐隊4隻が集うことになった。6月8日、第二次渾作戦に参加。第27駆逐隊は第19駆逐隊(敷波、浦波)と共にビアク島へ向かい、米陸軍爆撃機の空襲を受け戦没した。
戦後、海上自衛隊の「むらさめ型護衛艦」の一隻として3代目、4代目にわたって艦名が継承され、現在は4代目「はるさめ」が現役である。
関連
村雨(駆逐艦) / むらさめ・・・旧日本海軍の春雨型(2番艦)→白露型(3番艦)、海自になってからの旧むらさめ型→新むらさめ型と4代にわたり「春雨」→「はるさめ」と姉妹関係にある艦。