概要
生没年月日……天文12年(1543年)~慶長19年7月17日(1614年8月22日)
織田信秀の子供として生まれる。一般的には土田御前の子で四男とされるが諸説あり。一時期北伊勢を支配する長野工藤氏に養子入りしていたが後に信長の命で養子縁組を解消して織田姓に復帰する。
以後は兄信長に従い、各地を転戦。浅井氏滅亡の際には妹のお市の方や姪達三姉妹を手厚く保護した。一族の重鎮として甥織田信忠の補佐も務めた。
本能寺の変で信長が没した後は豊臣秀吉に従い、伊勢津城に十五万石を領し、「津侍従」と称され、天正11年(1583年)には甥・織田信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益を攻略している。
その後小田原の役にて秀吉に反抗した北条氏政・氏直父子の助命嘆願をした為に怒りを買い、文禄3年(1594年)9月に改易処分を受ける。この際の改易理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。この直後に出家して老犬齋の法号を得。京都の慈雲院に隠棲する。
やがて許されて御伽衆として再度召し抱えられ、近江の一部を領した後に丹波柏原三万六千石に封ぜられる。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して、丹後田辺城に居る東軍側の細川幽斎を攻め立てたが、戦後は罪を不問とされ、豊臣秀頼の補佐をした。
しかし大坂の陣直前に急に吐血し死亡する。享年72歳。片桐且元による毒殺説もあるが詳細は不明。
三男の信則が嫡男として後を継いだが、信包系の織田家はその次の信勝の代に無嫡で途絶える。が、途絶えたのは嫡流のみであって、長男の信重(※)の三男である津田長相が肥後熊本藩の細川家の家臣として、また四男の信当(のぶまさ)が丹後氷上郡3000石を与えられ、江戸幕府の旗本寄合としてそれぞれ代々受け継がれ、現在も織田信包の血筋が残っている。
(※)(父・信包の改易に伴って伊勢林藩1万石を与えられていたが、実弟の信則が父親の遺領を継ぐ事に不満を持ち、信重は大坂の陣の後に、『(信包系の)織田の当主は、私だ!!』と言わんばかりに幕府に異議申し立てをしたものの、1615年(慶長20年)閏6月23日に幕府による調査の結果、幕府は信則の相続を父・信包の遺言によるものという判断を信重に伝えた。更に同年閏6月29日幕府は信重の異議申し立てを「僻事(=今更父親の後を継げなかった事に対して僻み、ゴチャゴチャ揉めて混乱を来たさせた罪)」として所領である伊勢林藩を没収。故に長男ではあるが『庶兄』扱いとされた。)
後世での扱い
とにかく地味の一言に尽きる。
織田一門衆の中では嫡流である信忠、織田信雄に次ぐナンバー3で功績もあったが、良くも悪くも目立たないため基本的に『隅の方でなんかやっていた人』程度の認識しかされない。
ぶっちゃけ弟の有楽斎よりキャラが立ってない。
歴史小説で主要人物になるどころか名前しか出てこないなんて扱いはザラで、織田・豊臣家がよく題材となる大河ドラマでも滅多に出番が無く、羽柴秀次ですら主人公になるトンデモ戦記でも中々お呼びがかからない。
コーエーのゲームではパッとしないステータスとグラフィックにされ、あげくその他のゲームや漫画では軽く無視をくらう。
作品によっては、さも信長の弟は謀反を起こした織田信勝のみであるかのように描かれることがあるが、そんなイメージの被害を被った一人であると言える。ちなみに実際の信長には弟がたくさんおり、異母兄までいる。
一応その出生と最期には謎があるが、そんな物に興味があるのは恐らく学者か余程のマニアぐらいであろう。
登場作品における織田信包
『戦国大戦』
フィクション作品では何かと無視されがちな信包だが、セガのアーケードゲーム 戦国大戦 には兄共々参戦。
堅実で扱いやすい能力と計略に加え、入手しやすいレアリティのため初心者向けカードの1枚に数えられる。
pixiv内でのイラストはほとんどが戦国大戦関連である。
『兄とともに戦い続けること‥‥それが私の運命か』