概要
1941年12月28日生れ、島根県能義郡安来町出身。本名は渡瀬道彦(わたせ みちひこ)。
俳優として『大都会』、『西部警察』、『ゴリラ-警視庁捜査第8班-』、『私鉄沿線97分署』、『マグロ』に出演。声優としても『龍が如く』で声を当てている。
歌手としても1973年8月にリリースした「くちなしの花」が1974年の年間シングルチャートで7位を記録。オリコンセールス:77.4万枚[8]、累計150万枚を売り上げ第25回NHK紅白歌合戦に初出場した。(1993年の第44回にも「くちなしの花」で出場。)
弟の渡瀬恒彦も俳優。
2005年(平成17年)、紫綬褒章を受章。
2020年(令和2年)、8月10日、肺炎により死去。享年78歳。
エピソード
- 趣味は「焚火」。本人曰く「煙の行方を眺めるのが好き」。火が上がるような焚き火ではなく、煙が一筋昇る程度の燃え方が良いと言う拘りを持つ。
- 大腸がんの手術の後、長らく人工肛門を使用している。当初本人は人工肛門を拒否していたが、弟の恒彦に「助かる方法があるのに選択しないのは間違っている」と説得され、手術を決意したという。
- 嘗て日本酒のCMをしていた時期があったが、CMでのイメージとは裏腹に下戸であった。石原裕次郎の晩年に酒量が増え、その影響か次第に人並みに飲めるようになった。但し闘病後は酒量も減り、喫煙も止めた。因みにソフトクリームが好きで、「渡哲也のヘルシーソフトクリーム」なる商品が販売されている。
- 日活の新人時代に取材に来た記者の非礼に激怒して、アッパーカットを見舞って気絶させた事がある。
- 日活でのデビュー当時、石原裕次郎に挨拶に行った際に石原は新人の渡に対して立ち上がって自ら進んで握手をし、声をかけた。このことに感激した渡はそれに習ってベテランとして若手から挨拶を受ける立場になっても石原と同じように立ち上がって声をかけるようにしていた。龍が如くで共演した釘宮理恵は声優陣顔合わせの場にて渡に挨拶した際、渡が立ち上がり、「渡哲也です、声優業に不馴れなので何分至らない点もありますが宜しくご指導お願いします」とお辞儀をされ、感激のあまり泣いてしまった。
- 日本酒のCMをネタにされることには寛容である。が、馴れ馴れしい呼び方をされることには激怒し、「松竹梅はシャレで聞くよ。だけどなんで俺がお前にテツって呼ばれなくちゃいけないんだ」ととんねるずに激怒したことがある。(※1)
- テニスの錦織圭は遠い親戚。(渡の祖母と、錦織の曽祖父が兄弟)しかしそれを知ったのは兄弟共につい最近でテニスの知識も全く無かったが、「わが一門も、なかなか捨てたもんじゃないねえ。」とコメントしている。
- 恒彦の死去に際し、「当初よりステージ4、余命1年の告知を受けておりましたので今日の日が来るのは覚悟しておりましたものの、弟を失いましたこの喪失感は何とも言葉になりません」と直筆でコメントし、その無念さを明かしている。
※1. 元々罰ゲーム企画の一環であり、馴れ馴れしく振舞っていたのも罰ゲームの指令によるもの。直後に渡自身が仕込みであった旨を明かしたものの、その激昂ぶりがあまりにも真に迫っていた事から、とんねるず石橋に強烈なトラウマを植えつけてしまった。