宇喜多直家
うきたなおいえ
概要
備前の豪族で、浦上氏の家臣でもあった宇喜多氏の5代目当主。豊臣政権下で五大老を務めた事でも知られる宇喜多秀家は嫡男に当たる。
不遇の幼少期を経て、巧みな策謀で大名にまで登り詰めた傑物の一人であるが、その為に直家が多く用いた手口というのが「自身の息女や姉妹、それに親類の娘を養女として相手との縁組を成立させ、時節を見計らって相手を毒殺・暗殺する」というものであった(この際、嫁いでいた息女や姉妹らも大抵の場合は死を迎えたとされる)。この他、暗殺の手段として鉄砲を導入した最初期の人物の一人とも伝わる。
こうした所業の数々から、同じく謀略・計略に長けた毛利元就や尼子経久と並んで中国三大謀将とも称されると共に、主家を追い落とし下剋上を成し得た事から松永久秀・斎藤道三等と並ぶ大悪人とも呼ばれる。
身内からも直家の所業は恐れられていたようで、異母弟で直家を古くから補佐していた宇喜多忠家でさえも、直家の前へ出る時は常に鎖帷子を着込むほどの警戒ぶりであったという。もっともこの話は忠家が、後年豊臣秀吉の御伽衆として仕えていた際に披露した話であり、話を面白くするためにエピソードを盛っている可能性も高い事に留意されたい。さらに言えば、忠家自身にも道理に合わぬ人斬りなどといった短慮がしばしば目立っており、直家の危うさというよりは兄から成敗されてもおかしくはない立場にあった事や、それに起因しての猜疑心を物語るものではないかとも指摘されている。
上記したような物騒な一面がクローズアップされがちな一方、直家自身は前出の忠家や家臣らを終始大切に扱い、暗殺を実行した者も使い捨てる事無く厚遇するなど、一貫して家中の結束に腐心し続けている。乙子城主時代には兵糧の欠乏状態が常であった中、家臣らと共に耕作に励むと共に自ら節食にも努めるなど、苦境にありながらも結束を深めていった逸話も数々残されている。
また自身と敵対する勢力の弾圧を受けていた寺社の再建を手助けし、さらには暗殺の対象となった相手すらも手厚く葬るなど、単に血も涙もない悪人とは言い難い側面も持ち合わせた人物でもあった。そもそも直家の目的が「没落した自家を再興する」事であり、なおかつその成就のため手段は選ばない(選べない)立場にあった事、また当時の価値観なども含めて考えれば、上記した所業の数々も必ずしも「非道」の一語で片付けられるものではないと言えるのかも知れない。
作られた「謀将」?
・・・以上のように、戦国時代における謀将の代表格とされてきた直家であるが、一方でその事績については『備前軍記』など、時代が下ってから記された軍記物に拠るところが大きく、近年研究が進むにつれて次のような疑問や反証も示されつつある。
例えば、備前松田氏の配下として直家と敵対関係にあった穝所職経(元常)は、「その男色好みなところを利用されて直家の謀略の前に散った」と語られてきたが、実際には毛利氏の手の者によって暗殺された事が、同時代の資料から明らかにされている。また直家の娘婿に当たる浦上宗辰(浦上宗景嫡男)も、同様に直家によって毒殺の憂き目に遭ったとされているが、こちらはそもそも宗辰の存在そのものが疑問視されつつある、という有様である。
さらに言えば、直家の仇とも言うべき島村盛実や、彼と連座して誅殺された直家の舅・中山勝政(直正)など、直家の立身出世を語る上で欠かせない者たちについても、軍記物で語られてきたような因縁や謀殺などを裏付ける記述は一次資料には存在せず、共に浦上宗景・政宗間の和睦に伴う政治的変化の責任を取らされる形で殺害された事が、令和年間に入って発見された書状などから有力視されつつある。
このように、本来直家とは関わりのないはずの事例も、直家による「謀略」として語られてきたケースが少なからず存在しており、直家という人物の実像については上記以外の「謀略」や前半生の事跡なども含め、今後のさらなる研究による見直しの必要がある事に留意されたい。
生涯
幼少期
享禄2年(1529年)に4代目当主・宇喜多興家の子として、居城の砥石城にて生を受ける。しかし天文3年(1534年)に先代当主で祖父の宇喜多能家が、播磨の赤松晴政の手の者により砥石城にて殺害されてしまう。さらにこの少し後には父・興家も、同じ浦上家中の島村一族の子供衆との諍論の末に殺害されており、結果として宇喜多氏の惣領は分家の宇喜多大和守(浮田国定)に移るなど、幼少期の直家は後ろ盾のない状態で不遇の日々を過ごす事となったと見られる。
この祖父と父の相次ぐ横死については、これまで軍記物などで次のように語られてきた。
祖父の能家は、当時険悪な関係にあった島村盛貫(盛実、貫阿弥とも)と、能家の異母弟であった浮田国定らの奇襲に遭い自害。この時父・興家は直家と共に備後に逃れ、放浪の末に当地の豪商であった阿部善定を頼る。阿部家に身を寄せた興家は善定の娘を娶り、直家の異母弟に当たる忠家、春家の二人の男児にも恵まれたが、家臣らからは「父(能家)とは大違いな愚か者」との批判にさらされ、そのストレスを苦に病死もしくは自害という形でこの世を去った・・・というものである。
しかし、以上の説話についてはいずれも同時代の史料上にて確認出来るものではなく、能家の死はあくまで主家である浦上氏と、敵対関係にあった赤松氏の抗争に関連してのものに過ぎない。また興家が亡くなった経緯についても、説話と実際の記録との間で明らかな相違が生じており、前述した刃傷沙汰の調停に盛貫が当たっていた事が、いつしか上記したような説話へと転じていったというのが実情であろう。
浦上氏への仕官
成人した後、直家は備前天神山城主・浦上宗景に仕える。直家の母がこの頃宗景の奥女中であった事も、宗景に仕える上で大きな要因となったとされる。天文13年(1544年)、かつての浦上氏の主筋でもあった赤松晴政との合戦で初陣を飾り、ここで武功を立てた事で吉井川河口の要衝・乙子城を与えられた。
さて、当時の浦上氏は、先代当主・村宗(宗景の父)が大物崩れ(赤松政祐(晴政)・細川六郎(晴元)連合軍と浦上村宗・細川高国連合軍の戦い)にて戦死し、宗景の兄の政宗が家督を継いでいたが、天文20年(1551年)より始まった尼子晴久の備前侵攻への対応を巡って、兄弟間で意見が対立していた頃でもあった。
政宗が尼子晴久・松田元輝らと結託する一方、宗景は毛利元就や三村家親ら「備中衆」と同盟し、浦上氏は分裂状態に陥った。直家もこの両者の抗争に宗景方として従軍し、弘治2年(1556年)頃には政宗方についた浮田国定の籠る砥石城を攻めこれを討ち取るなど、浦上家臣団の中で頭角を現しつつあった。
その後家中の有力者であった島村盛貫、そして舅の中山勝政(直正)が相次いで殺害されるに至り、直家は父祖の地である砥石城、さらに勝政の領していた沼城をも手に入れ、浦上氏のさらなる勢力拡大に中心的な役割を果たす事となる。
勢力拡大
その後、永禄9年(1566年)には備前や美作に侵攻し、直家とも度々干戈を交えていた備中の三村家親を、美作興善寺での軍議中に暗殺。さらに翌年の明善寺合戦で家親の子・元親率いる軍勢を、4倍もの兵力差を覆して討ち破った。ちなみにこの家親暗殺は前述した鉄砲を用いてのものであり、暗殺を実行した遠藤秀清・俊通兄弟は後に宇喜多家中で重臣に取り立てられてもいる。
しかし明善寺合戦の折、直家の長女を嫁がせ姻戚関係にあったのにも係らず、援軍を寄越さなかった松田元輝(左近将監元堅)・元賢親子に対し激怒。またこの頃、松田親子が狂信的な日蓮宗徒となった事で、領内では他宗の寺社や領民が日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒んだ寺社を打ち壊しに及ぶ事もしばしば見られるようになった。こうしたあまりにも横暴な態度によって領内は大いに荒れ、領民や家臣達も徐々に怒りを募らせるようになっていった。
そんな中、2年後の永禄11年(1568年)に松田氏の居城・金川城付近で行われた鹿狩りの折に、直家は松田家臣団の中心人物である宇垣与右衛門を手の者を使い射殺。下手人は「鹿と間違えた」という弁明し、元輝も宇喜多氏との関係を考え黙認するが、与右衛門の兄・宇垣市郎兵衛は激怒し絶縁状を突きつけて出奔するなど、元輝と家臣団との関係にも更なる不協和音を生じさせる結果となった。
これを好機と見た直家は、元輝と対立していた伊賀久隆を寝返らせ金川城を包囲させると、元輝を鉄砲で討ち取る。代わって指揮を執った元賢も懸命に防戦するも衆寡敵せず、城を捨てて逃亡を図るも程なく敗死に追い込まれた。この時、元賢の妻として嫁いでいた直家の長女も自害に及んでいる。
元亀元年(1570年)には、石山城主の金光宗高を毛利氏への内通を口実に切腹させ、後に直家はそれまでの沼城から石山城を宇喜多氏の新たな居城と定めた。またこれに伴う西国街道の付け替えや、備前福岡・西大寺などからの商人誘致による城下町の整備など、積極的な経済振興策も行っている。
下剋上と浦上氏との抗争
こうして浦上家中きっての実力者へとのし上がっていった直家だが、やがてその野心の矛先は主君・浦上宗景へも向けられるようになっていく。
最初に宗景に対する反旗を翻したのは永禄12年(1569年)の事で、この時は西播磨の赤松政秀、そして上洛して程ない織田信長・足利義昭と結託して宗景に対抗するが、政秀は黒田職隆・孝高親子との合戦で敗北し弱体化。また信長が派遣した池田勝正らの軍勢も織田氏の方針転換により撤兵したため、孤立状態に陥った直家は已む無く宗景へ降伏せざるを得なかった。
この時は特別に許され帰参した直家だったが、その後も浦上氏からの独立は諦めておらず、密かに備前国内の国人らへの調略を進める一方、当時播磨の小寺政職の元にあった浦上氏の一門・久松丸(浦上政宗の孫)の備前入りを政職に打診。そして首尾よく政職からの許可を得ると、天文2年(1574年)に久松丸を擁して2度目の反抗に及んだのである。
久松丸という旗頭の存在や事前の調略も功を奏し、美作・備前の浦上方国人も相次いで宇喜多方に与し、今度は直家が戦局の主導権を握る格好となった。さらに軍事面での不利を補うべく、宗景と長らく対立していた毛利氏とも同盟を結び、翌年に起きた「備中大乱」では毛利軍と共同で宗景方に与していた三村元親を討ち滅ぼすなど、協調体制を取った。
そして同年秋には明石行雄ら宗景の重臣らも内応に及び、直家は天神山城を攻めて宗景を播磨へと追放。ここに下克上を果たした直家は、備前・備中の一部・美作の一部を領する戦国大名の一員へとのし上がったのである。
とはいえ、その後も坪井氏・馬場氏など備前国内に残る浦上氏旧臣らの抵抗は根強く、宗景らも播磨からこれら旧浦上勢力を密かに支援するなど、こうした動きは数年に亘り直家を悩ませた。さらに天正6年(1578年)末には幸島を拠点に浦上氏の残党が一斉蜂起し、一時は天神山城をも手中に収めるなど猛威を振るった。
だが直家は、この機会に備前・播磨の旧浦上勢力の一掃を図り、さらに宗景を支援していた美作鷲山城主・星賀光重や周匝茶臼山城主・笹部勘二郎らが討たれるに至り、宗景の領主復帰の野望も敢え無く挫かれる事となる。時に天正7年(1579年)4月頃の事であったと伝わる。
最晩年
浦上氏の勢力を一掃して間もない同年5月には、羽柴秀吉率いる織田氏の中国方面軍に対抗し、織田方に内応した疑いで東美作の後藤勝基を滅ぼしている。しかし信長の勢威にこれ以上抗し続けるのは不可能と判断したのか、程なく毛利氏と手を切り織田氏に臣従の意を示した。
その後は美作・備前を中心に毛利軍と干戈を交えるも、この頃から直家は「尻はす」と呼ばれる重い病に悩まされるようになったとされ、死期を悟った直家は嫡男・八郎(秀家)の事を秀吉に託す一方、義弟の伊賀久隆を毒殺するなど、後顧の憂いを断つべく動いていた節がいくつも見られる。そして天正9年の末に居城・岡山城にて52歳で死去。但しその死はしばらく伏せられていたため、公式な忌日はそれよりさらに後の天正10年1月9日(1582年2月1日)とされた。
創作物での宇喜多直家
信長の野望
暗殺や下克上など危険度の高い事件を起こしているため義理値が1に設定されることが多く
しかし知略はトップクラスの数値を持っており引き抜きの危険性と引き換えに高い性能を発揮する。
そのため浦上家周辺の大名でプレイする時は彼を引き抜くも戦略の1つの手だ。
参照動画
↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6838891
後の作品では史実の浦上家からの独立を再現したイベントがある。
戦国無双
武器:薙刀(2Emp)、槍(3以降) 声:山田真一(2Emp)神谷浩史(3)宮坂俊蔵(4)
「何、貴様らなどまだまだよ。わしには遠く及ばぬ」(3Empのイベント「梟雄会す」より)
「謀聖の戦、存分に堪能されよ…」(4Emp特殊セリフ)
2ではイベントは無かったが、3では松永久秀、斎藤道三とのイベントもあり。4Empでは固有のデザインで登場し、前作には無かった戦闘時の特殊台詞を引っ提げて登場した。
宇喜多の捨て嫁
木下昌輝による歴史小説。
全6編である本作では各章毎に主人公が異なり、『無想の抜刀術』、『貝合わせ』は彼の視点で物語が進む。全編を通して登場し、本作の実質的な主人公でもある。
数々の謀略でのし上がり、天下にその悪名をとどろかす梟雄。若い頃より奇病に冒され、定期的に古傷から血が膿みに変わって流れ出し、腐臭を漂わせている。また、相手の殺意に反応して無意識に刀を抜き払う習性がある。
生死をかけた謀にこそ生きがいを見出し、実の娘ですら謀略の道具として使う非道の人物として描かれる一方、そのような武将になるに至った過程も描かれている。