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宇喜多直家の編集履歴

2019-04-20 22:21:20 バージョン

宇喜多直家

うきたなおいえ

宇喜多直家とは、中国地方の戦国武将。幼少期の没落から策謀を駆使して浦上家中で頭角を現し、やがて浦上氏を追放し下剋上を果たした。「中国地方の三大謀将」の一人としても数えられる。(1529年~1581年)

概要

備前の豪族で、浦上氏の家臣でもあった宇喜多氏の5代目当主。豊臣政権下で五大老を務めた事でも知られる宇喜多秀家は嫡男に当たる。

不遇の幼少期を経て、巧みな策謀で大名にまで登り詰めた傑物の一人であるが、その為に直家が多く用いた手口というのが「自身の息女や姉妹、それに親類の娘を養女として相手との縁組を成立させ、時節を見計らって相手を毒殺・暗殺する」というものであった(この際、嫁いでいた息女や姉妹らも大抵の場合は死を迎えたとされる)。この他、暗殺の手段として鉄砲を導入した最初期の人物の一人とも伝わる。


こうした所業の数々から、同じく謀略・計略に長けた毛利元就尼子経久と並んで中国三大謀将とも称されると共に、主家を追い落とし下剋上を成し得た事から松永久秀斎藤道三等と並ぶ大悪人とも呼ばれる。

身内からも直家の所業は恐れられていたようで、異母弟で直家を古くから補佐していた宇喜多忠家でさえも、直家の前へ出る時は常に鎖帷子を着込むほどの警戒ぶりであったという。とはいえこの話は忠家が、後年豊臣秀吉の御伽衆として仕えていた際に披露した話であり、話を面白くするためにエピソードを盛っている可能性も高い事に留意されたい。


上記したような物騒な一面がクローズアップされがちな一方、直家自身は前出の忠家や家臣らを終始大切に扱い、暗殺を実行した者も使い捨てる事無く厚遇するなど、一貫して家中の結束に腐心し続けている。乙子城主時代には兵糧の欠乏状態が常であった中、家臣らと共に耕作に励むと共に自ら節食にも努めるなど、苦境にありながらも結束を深めていった逸話も数々残されている。

また自身と敵対する勢力の弾圧を受けていた寺社の再建を手助けし、さらには暗殺の対象となった相手すらも手厚く葬るなど、単に血も涙もない悪人とは言い難い側面も持ち合わせた人物でもあった。そもそものスタートラインが「没落した自家を再興する」事である以上、その成就のため手段は選ばない(選べない)立場にあった事、また当時の価値観なども含めて考えれば、上記した所業の数々も必ずしも「非道」の一語で片付けられるものではないと言えるのかも知れない。


生涯

幼少期

享禄2年(1529年)に4代目当主・宇喜多興家の子として、居城の砥石城にて生を受ける。しかし天文3年(1534年)に先代当主で祖父の宇喜多能家が、当時険悪な関係にあった島村盛実(貫阿弥)と、能家の異母弟であった浮田国定らの奇襲に遭い自害に追い込まれてしまう。

この時父・興家は直家と共に備後に逃れ、放浪の末に当地の豪商であった阿部善定を頼る。阿部家に身を寄せた興家は善定の娘を娶り、直家の異母弟に当たる忠家、春家の二人の男児にも恵まれたが、家臣らからは「父(能家)とは大違いな愚か者」との批判にさらされ、そのストレスを苦に病死もしくは自害という形でこの世を去っている。

一説では家名や息子らを守るため暗愚を装っていたともされるが、いずれにせよ幼い直家にとって父の死がさらなる痛手となった事は言うまでもあるまい。この後、直家は尼僧となっていた伯母の下でしばしの間雌伏の時を過ごす事となる。


浦上氏への仕官~敵討ち

成人した後、直家は備前天神山城主・浦上宗景に仕える。直家の母がこの頃宗景の奥女中であった事も、宗景に仕える上で大きな要因となったとされる。天文13年(1544年)、かつての浦上氏の主筋でもあった備前の赤松晴政との合戦で初陣を飾り、ここで武功を立てた事で吉井川河口の要衝・乙子城を与えられた。

さて、当時の浦上氏は、先代当主・村宗(宗景の父)が大物崩れ(赤松政祐(晴政)・細川六郎(晴元)連合軍と浦上村宗・細川高国連合軍の戦い)にて戦死し、宗景の兄の政宗が家督を継いでいたが、天文20年(1551年)より始まった尼子晴久の備前侵攻への対応を巡って、兄弟間で意見が対立していた頃でもあった。

政宗が尼子晴久・松田元輝らと結託する一方、宗景は毛利元就や三村家親ら「備中衆」と同盟し、浦上氏は分裂状態に陥った。直家もこの両者の抗争に宗景方として従軍し、弘治2年(1556年)頃には政宗方についた浮田国定の籠る砥石城を攻めこれを討ち取るなど、浦上家臣団の中で頭角を現しつつあった。


こうした中で、次第に直家は策謀を巡らし浦上家中の敵対者を葬り去っていくようになる。その最初の犠牲者となったのが仇敵・島村盛実であった。当時浦上家中で権勢を振るっていた盛実であったが、その存在を疎んじていた宗景と、祖父の仇を討ちたいという直家の利害とが一致した末、盛実が宗景への謀叛を企んでいるという疑いが持ち上がったのを機に、宗景からの命を受けた直家は盛実を誘い出し暗殺せしめたのである。

この時その巻き添えを食ったのが、浦上氏重臣で直家の舅・中山信正であった。かねてから直家の台頭ぶりに不安を抱き、先んじて娘を嫁がせるなど予防線を張っていたが、こちらも盛実の謀叛の連座を逃れる事は出来なかった。父・信正の死を知り、直家の夫人もこの時自決もしくは出家したしたとも伝わるが、ともあれ直家はこれで敵討ちを果たして父祖の地である砥石城、さらに信正の領していた沼城をも手に入れ、浦上氏のさらなる勢力拡大に中心的な役割を果たす事となる。


(ちなみに、この頃松田氏の配下として直家と争っていた穝所元常も、直家の謀略の犠牲者として軍記物で取り上げられる事があるが、実際には毛利氏の手の者によって暗殺された事が、同時代の資料から明らかにされている)


勢力拡大

その後も直家の謀略は留まる事を知らず、永禄9年(1566年)には備前や美作に侵攻し、直家とも度々干戈を交えていた備中の三村家親を、美作興善寺での軍議中に暗殺。さらに翌年の明善寺合戦で家親の子・元親率いる軍勢を、4倍もの兵力差を覆して討ち破った。ちなみにこの家親暗殺は前述した鉄砲を用いてのものであり、暗殺を実行した遠藤秀清・俊通兄弟は後に宇喜多家中で重臣に取り立てられてもいる。


しかし明善寺合戦の折、直家の長女を嫁がせ姻戚関係にあったのにも係らず、援軍を寄越さなかった松田元輝(左近将監元堅)・元賢親子に対し激怒。またこの頃、松田親子が狂信的な日蓮宗徒となった事で、領内では他宗の寺社や領民が日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒んだ寺社を打ち壊しに及ぶ事もしばしば見られるようになった。こうしたあまりにも横暴な態度によって領内は大いに荒れ、領民や家臣達も徐々に怒りを募らせるようになっていった。

そんな中、2年後の永禄11年(1568年)に松田氏の居城・金川城付近で行われた鹿狩りの折に、直家は松田家臣団の中心人物である宇垣与右衛門を手の者を使い射殺。下手人は「鹿と間違えた」という弁明し、元輝も宇喜多氏との関係を考え黙認するが、与右衛門の兄・宇垣市郎兵衛は激怒し絶縁状を突きつけて出奔するなど、元輝と家臣団との関係にも更なる不協和音を生じさせる結果となった。

これを好機と見た直家は、元輝と対立していた伊賀久隆を寝返らせ金川城を包囲させると、元輝を鉄砲で討ち取る。代わって指揮を執った元賢も懸命に防戦するも衆寡敵せず、城を捨てて逃亡を図るも程なく敗死に追い込まれた。この時、元賢の妻として嫁いでいた直家の長女も自害に及んでいる。


元亀元年(1570年)には、石山城主の金光宗高を毛利氏への内通を口実に切腹させ、後に直家はそれまでの沼城から石山城を宇喜多氏の新たな居城と定めた。またこれに伴う西国街道の付け替えや、備前福岡・西大寺などからの商人誘致による城下町の整備など、積極的な経済振興策も行っている。


下剋上と浦上氏との抗争

こうして浦上家中きっての実力者へとのし上がっていった直家だが、やがてその野心の矛先は主君・浦上宗景へも向けられるようになっていく。

最初に宗景に対する反旗を翻したのは永禄12年(1569年)の事で、この時は西播磨の赤松政秀、そして上洛して程ない織田信長足利義昭と結託して宗景に対抗するが、政秀は黒田職隆孝高親子との合戦で敗北し弱体化。また信長が派遣した池田勝正らの軍勢も織田氏の方針転換により撤兵したため、孤立状態に陥った直家は已む無く宗景へ降伏せざるを得なかった。


この時は特別に許され帰参した直家だったが、その後も浦上氏からの独立は諦めておらず、密かに備前国内の国人らへの調略を進める一方、当時播磨の小寺政職の元にあった浦上氏の一門・久松丸(浦上政宗の孫)の備前入りを政職に打診。そして首尾よく政職からの許可を得ると、天文2年(1574年)に久松丸を擁して2度目の反抗に及んだのである。

久松丸という旗頭の存在や事前の調略も功を奏し、美作・備前の浦上方国人も相次いで宇喜多方に与し、今度は直家が戦局の主導権を握る格好となった。さらに軍事面での不利を補うべく、宗景と長らく対立していた毛利氏とも同盟を結び、翌年に起きた「備中大乱」では毛利軍と共同で宗景方に与していた三村元親を討ち滅ぼすなど、協調体制を取った。

そして同年秋には明石行雄ら宗景の重臣らも内応に及び、直家は天神山城を攻めて宗景を播磨へと追放。ここに下克上を果たした直家は、備前・備中の一部・美作の一部を領する戦国大名の一員へとのし上がったのである。


とはいえ、その後も坪井氏・馬場氏など備前国内に残る浦上氏旧臣らの抵抗は根強く、宗景らも播磨からこれら旧浦上勢力を密かに支援するなど、こうした動きは数年に亘り直家を悩ませた。さらに天正6年(1578年)末には幸島を拠点に浦上氏の残党が一斉蜂起し、一時は天神山城をも手中に収めるなど猛威を振るった。

だが直家は、この機会に備前・播磨の旧浦上勢力の一掃を図り、さらに宗景を支援していた美作鷲山城主・星賀光重や周匝茶臼山城主・笹部勘二郎らが討たれるに至り、宗景の領主復帰の野望も敢え無く挫かれる事となる。時に天正7年(1579年)4月頃の事であったと伝わる。


最晩年

浦上氏の勢力を一掃して間もない同年5月には、羽柴秀吉率いる織田氏の中国方面軍に対抗し、織田方に内応した疑いで東美作の後藤勝基を滅ぼしている。しかし信長の勢威にこれ以上抗し続けるのは不可能と判断したのか、程なく毛利氏と手を切り織田氏に臣従の意を示した。


その後は美作・備前を中心に毛利軍と干戈を交えるも、この頃から直家は「尻はす」と呼ばれる重い病に悩まされるようになったとされ、死期を悟った直家は嫡男・八郎(秀家)の事を秀吉に託す一方、義弟の伊賀久隆を毒殺するなど、後顧の憂いを断つべく動いていた節がいくつも見られる。そして天正9年の末に居城・岡山城にて52歳で死去。但しその死はしばらく伏せられていたため、公式な忌日はそれよりさらに後の天正10年1月9日(1582年2月1日)とされた。


創作物での宇喜多直家

信長の野望

暗殺や下克上など危険度の高い事件を起こしているため義理値が1に設定されることが多く

松永久秀とならびギリワンと呼ばれることも多々ある。

しかし知略はトップクラスの数値を持っており引き抜きの危険性と引き換えに高い性能を発揮する。

そのため浦上家周辺の大名でプレイする時は彼を引き抜くも戦略の1つの手だ。

参照動画

https://www.nicovideo.jp/watch/sm6838891

後の作品では史実の浦上家からの独立を再現したイベントがある。


戦国無双

武器:薙刀(2Emp)、槍(3以降) 声:山田真一(2Emp)神谷浩史(3)宮坂俊蔵(4)


何、貴様らなどまだまだよ。わしには遠く及ばぬ」(3Empのイベント「梟雄会す」より)

謀聖の戦、存分に堪能されよ…」(4Emp特殊セリフ)


2ではイベントは無かったが、3では松永久秀斎藤道三とのイベントもあり。4Empでは固有のデザインで登場し、前作には無かった戦闘時の特殊台詞を引っ提げて登場した。


宇喜多の捨て嫁

木下昌輝による歴史小説。

全6編である本作では各章毎に主人公が異なり、『無想の抜刀術』、『貝合わせ』は彼の視点で物語が進む。全編を通して登場し、本作の実質的な主人公でもある。

数々の謀略でのし上がり、天下にその悪名をとどろかす梟雄。若い頃より奇病に冒され、定期的に古傷から血が膿みに変わって流れ出し、腐臭を漂わせている。また、相手の殺意に反応して無意識に刀を抜き払う習性がある。

生死をかけた謀にこそ生きがいを見出し、実の娘ですら謀略の道具として使う非道の人物として描かれる一方、そのような武将になるに至った過程も描かれている。


軍師黒田官兵衛伝

戦国まとめ思い出のかんざし

暗殺マニア。常日頃から敵将を暗殺することに熱意を燃やす陰険な策略家。

暗殺を悪行と思ってはいるものの、実は部下や家族を大切に思っており、「無駄な犠牲を出すことなくことを為せる」という理由で愛している。

病に倒れ、ケツから出血が止まらなくなるというサエない死因を遂げることを本人も悲しんでいた。秀吉との交渉では「宇喜多一族を護る」という(暗殺マニアにしては)大人しい注文だけをつきつけ、愛する妻子の安寧を見届けてからこの世を去った。

息子・秀家はとても純粋でいい子に育っている。

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