戦国時代の女性。幼名は稲姫。天正元年(1573年)~元和6年(1620年)。
本多忠勝の長女で、徳川家康(秀忠?)の養女となり、天正年間に真田信之に嫁いだ。
関ヶ原の戦いで信之は東軍に、真田昌幸と信繁(幸村)は西軍に分かれたが、
昌幸と信繁が孫の顔を見に沼田城へ行くと、武装した小松に追い返されてしまった。
その後に、寺で休息していた昌幸の元へ小松が子供を連れに来たという。
その後、九度山に謹慎された義父と義弟に仕送りし、家の倹約に努め、夫を支えたという。
病となり湯治に向かう途中に亡くなってしまい、信之は「我が家から光が消えた」と大いに悲しんだという。
戦国における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高かったという。