ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ウォーエンブレムの編集履歴

2021-07-05 23:37:52 バージョン

ウォーエンブレム

どうしてろりこんなんかにうまれちまったんだ

ウォーエンブレムとは、アメリカの偉大なる競走馬であるのだが……。 (メイン画像擬人化注意)

概要

ウォーエンブレムとは、アメリカの二冠馬である。

プロフィール

生年月日1999年2月20日
没年月日2020年3月11日
英字表記War Emblem
性別牡→騙
毛色青鹿毛
Our Emblem
Sweetest Lady
母の父Lord at War
競走成績13戦7勝


現役時代

メイクデビュー~2001年

2001年10月、メイドン競馬場にてデビュー。メイクデビューで勝利するという上々の滑り出しを見せた。

2戦目は芝のマニラステークス。ここは敗北を喫してしまう。

ダートに戻った3戦目で勝利、2勝目を挙げた。

以上の3戦2勝で2歳シーズンを終え、クラシック戦線に挑戦する。

3歳時

3歳になったウォーエンブレムは、ステークスや重賞競走などに挑戦していく。しかし、二戦連続で馬群にひるみ惨敗。

しかし、その次の出走では、なんと11馬身後続をちぎり捨てて勝利

ウォーエンブレムは「気分よくさせてやれば強い」と確信した陣営は、次の出走をGⅡイリノイダービーに定めた。

気分がよくなったウォーエンブレムは、イリノイダービーでも爆走し6馬身1/4後続をちぎり捨てるなど、成績が上がっていく。


イリノイダービーの後、ウォーエンブレムに転機が訪れた。

サウジアラビアの有力馬主、サルマン殿下がウォーエンブレムに目をつけ、もとの馬主から90万ドルで買い取ったのだ。

これに伴い、ウォーエンブレムの馬主はサルマン殿下率いる「ザ・サラブレッドコーポレーション」に変わり、アメリカ屈指の名調教師、ボブ・バファートの厩舎に転厩することとなった。

アメリカ三冠挑戦

転厩後初のレースとなったG1「ケンタッキーダービー」。ヴィクター・エスピノーザを鞍上に迎え、18頭中9番人気。

スタートするやいなや先頭に立って突っ走り、4馬身差で勝利。その強さを見せつけた。


続くプリークネスステークスでも先行策を取り、3コーナーで早めに先頭に立つ。

さすがにウォーエンブレムに二冠目を取らせまいと他馬が上がってくるものの、その猛追を制し勝利。アメリカ二冠目を手に入れたのだった。


そして迎えた三冠目、ベルモントステークス。現地にはベルモントパーク競馬場史上最高となる10万3222人の観衆が詰めかけ、その偉業を一目見ようとしていた。

しかし、ウォーエンブレムはスタートで出遅れ、Saravaの8着と破れた。

その後

三冠挑戦後は、ハスケル招待ハンデキャップで楽勝するも、古馬相手のパシフィッククラシックステークスはBCクラシックでは気分よく走れず、それぞれ6着と8着で連敗を喫した。


このころには気性も悪化し始めており、誘導馬に噛みつくバファート調教師に飛び掛かるなどの問題行動を連発していた。


それもあってか、ウォーエンブレムは引退。サルマン殿下のもと、アメリカで種牡馬となる・・・はずだった。


種牡馬入り後

時は2002年、あのサンデーサイレンス逝去の頃。サンデーサイレンスの血統があふれかえっている日本では、それを持たない血統の種牡馬の導入が急務となっていた。

また、非サンデーサイレンス系として注目されていたエルコンドルパサーエンドスウィープが相次いで亡くなり、その代わりも探さなければならなくなっていた。


一方そのころ、ウォーエンブレムは馬主だったサルマン殿下が死亡し、管財人によってセリにかけられていた。

そんな訳で直系こそミスタープロスペクター系であったが後は異系の塊の(サンデーサイレンスもそうだったけど)であったウォーエンブレムは社台ファームに見込まれ、21億円もの大金で輸入された(サンデーサイレンスは16億5000万円)。


で、さあ種付けとなった訳だが、これがやってくれない

1年目から種付けを拒み続け、交配したのはたったの7頭。商業ベースでの種付けは無理だと判断され、シンジケートも初年度で解散してしまった。


しかも、興味を持った相手が「栗毛で小柄な牝馬」ばかりだったもんだから、すっかりロリコンキャラが定着してしまう事に。

さらに、種付け出来たらその産駒はよく走るため、おいそれと手放すわけにもいかず、完全に生殖不能という訳でもないので保険金も満額おりないという、かなりビミョーな立場になってしまった。


2年目は、転地療養として釧路に移し、彼好みの牝馬で欲情させて別馬にすり替えるという「逆当て馬」とでも言うべき方法で50頭近く確保したが、その事がばれてすぐさま種付け拒否モードに突入。3年目は種付け頭数9頭になってしまう。

6年目となる2008年、ペンシルベニア大学のマクダネル博士による治療を受け、1日1頭ペースで種付けができるまで回復。

その年は39頭、翌年に43頭を確保したがそこまでで、また翌年は5頭になってしまった。

それ以降、陣営はこれ以上は難しいとしてウォーエンブレムの種牡馬引退、故郷のアメリカでの功労馬入りを決定した。


種牡馬引退後

そんなんだから2015年にアメリカに帰されたが、アメリカ入国前に大きな壁が立ちはだかった。

税関における「馬伝染性子宮炎」の検査である。

この病気は、馬の性感染症とでも言うべきもので、主に交配によって感染する。

有効なワクチンや薬が開発されていないため、一度馬産地に流入すると一気にその地域の馬産を壊滅させてしまうような恐ろしい病気なのである。

しかも厄介なことに、牡馬は菌を持っていても無症状なのだ。


そのため、アメリカは輸入されるすべての牡馬に対し、馬伝染性子宮炎の検査を義務付けていた。その内容は、2頭の牝馬に試験的な種付けを行い、感染しないか見るというもの。

そこでもいつものように種付けを拒み、ついには苦肉の策として種牡馬として一番大事なはずのもんを失う羽目に


その後は、ケンタッキー州ジョージタウンの功労馬繋養施設「オールドフレンズ」で余生を送っていが、2020年3月11日、小腸破裂のため21歳で死亡。


名競走馬であり、迷種牡馬として名をはせたウォーエンブレムはこの世を去った。


関連タグ

競馬 競走馬

サンデーサイレンス…ある意味ウォーエンブレムの災難の原因。


ロリコン

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました