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大川慶次郎の編集履歴

2021-07-07 11:29:04 バージョン

大川慶次郎

おおかわけいじろう

「競馬の神様」とも呼ばれた競馬評論家

経歴

1929年2月6日生まれ。現在の東京都北区王子出身。

父親は青森県で競走馬の生産牧場を経営し、馬主としても活動していた大川義雄。祖父は日本の製紙王とも言われた大川平三郎、曽祖父は渋沢栄一という実業家一族。

幼少の頃から競走馬を間近に見て育ち、父親に連れられて競馬場にも通っていた。


戦後、父の牧場を継いでオーナーブリーダーとなることを志したが、農地改革の影響で牧場が人手に渡ることとなり、大学卒業後は一般企業へ就職。入社3年後の1955年に退社し、明治座社長だった新田新作の競馬担当秘書となる。

秘書となった年、新田の所有していた4歳馬メイヂヒカリはクラシック出走を控えていた。しかし皐月賞目前の時期に飛節へ肉腫が出来ていることが判明。調教師は出走回避を考え、その意を受けた大川は新田を説得。何としても出走させたいと考えていた新田が渋々応じた事でメイヂヒカリは立ち直り、菊花賞で10馬身突き放す圧勝を遂げた。


1956年、新田新作が死去。同時期に別の馬主からの依頼で務めていた生産牧場の代表も辞した。

1年ほどの無職期間を経て1957年から日本短波放送の解説者となる。


ホースニュース社と予想家契約を結び、1961年9月3日、同社の発行する競馬新聞「ホースニュース・馬」で初のパーフェクト予想を達成。週刊誌に「競馬の神様」と記事にされた。


1981年、競馬予想会社を設立。総監督を亡くなるまで務めた。

1994年以降はフリーとなり、スーパー競馬に解説者として出演し、日刊スポーツ専属評論家として活動した。


1999年12月15日、美浦トレーニングセンターでの取材後にゴルフを楽しんだが、寿司屋での会食後に店内で倒れて緊急入院。12月21日に高血圧性脳出血でこの世を去った。

晩年は「21世紀初めての競馬を見ることが目標」と度々口にしていたが、その目標は彼の世からの観戦という形で叶ってしまった。


評論家として

予想屋と呼ばれることを嫌い、あくまでも「競馬評論家」であることに強い自負を抱いていた。


動物としての馬が好きで競馬業界に入ったためか、馬の体型を見ただけで予想家や競馬記者が気づかなかった体調・故障・先天的障害を言い当てたこともあった。


自分の予想を元にして馬券を買うファンへの作法として自らも予想通りの馬券を買うことを常としていた。晩年のテレビ出演時には「3億勝って4億負けている」と述べている。


1997年ジャパンカップ見事な5本目の脚を披露したピルサドスキーについて

ピルサドスキーが馬っ気を出したのは発情ではなく「俺が一番強い!俺が王様だ!」というのを他の出走馬に対して誇示するための行動

と推察し、予想を的中させた。

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