概要
跡部勝資は、武田家の重臣である跡部信秋の子息として産まれる。産まれた年については不明だが、少なくとも長坂釣閑斎とは10歳以上年が離れていたとされており、恐らく1525〜1535年頃の間に産まれた可能性が高い。幼名は「又八郎」とされる。
1549年に駒井高白斎共に佐久地方の有力な豪族大井氏の跡継ぎを決める使者に「跡又」という人物が見られ、これが勝資ではないかとされる。なお、この跡又という名前は1566年まで見受けられ、同年に勝資が大炊助を名乗ってから、姿を消すので可能性は高い。
1573年に信玄が失くなる頃には、山県昌景、高坂昌信と並ぶ兵力と発言権を有していたようである。信玄存命中は、石山本願寺並びに長島の門徒や伊勢湾の水軍等との交渉を担当していたようであり
その功績から信玄の有力な側近として重宝され、取次衆という地位に就いた。
武田勝頼が信玄の跡を継いだ後も重宝され続けていたが、甲斐国外で武田領の統治を行う馬場信春、内藤昌豊、真田信綱、秋山信友ら城代と、甲斐国内で文章を発行し城代と連絡を取り合う取次衆や朱印奏者である勝資をはじめとする山県昌景や長坂釣閑斎、土屋昌次らの対立が激しくなる。
勝資はその後も上杉景勝や佐竹義重といった大名との同盟の提携に貢献し、武田家を支えていくが、
1582年の甲州征伐の際に多くの家臣が勝頼を裏切る中、最期まで勝頼に使え、天文山で討死した。