現役時代
1961年4月26日生まれ、東京都小平市出身。
1983年に東京学芸大学からヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)に入団テスト合格によりドラフト外で入団。入団1年目にプロ野球のレベルの高さに衝撃を受け、当時は辞める事ばかり考えるほどの試練に見舞われた。
さらに2年目には特定疾患であるメニエール病にかかり、試合中にボールが2個どころか3個までにぶれるほどの目眩に襲われるようになり、1989年にゴールデンクラブを受賞するほどの活躍を見せるも、翌年1990年に現役を引退。
プロ通算成績336本安打7本塁打67打点。
現役引退後
引退翌年から野球解説者・野球評論家として活動を開始し、これまでにテレビ朝日・TBSラジオで解説、スポーツニッポンで執筆を行う。
この他、2008年より白鴎大学の教授として籍も置いている。大学教授を務める野球監督はNPB史上初である(国立大学出身者としても初)が、監督と教授の併任は時間の制約等もあり無理があるので実際は休職扱いになっている。またかつては母校の東京学芸大学の非常勤講師も勤めていた。
またキャスター時代に、数多くの高校野球選手にインタビューを行っており、その中には現在北海道日本ハムファイターズで活躍する選手もいる(後述)。
現在
2012年より北海道日本ハムファイターズの指揮官に就任。
就任当初は「なぜタレントが監督をやるのか?」とネット界隈の一部でdisられ、「はい日本ハム暗黒期に入りました」とか言われた。他方日本ハムのファンは、前任者に対する不満が大きく、監督が変わるなら「誰でも良い」状態だったので、概ね好感を持って迎えられた。
なぜ「タレントが監督に?」と言われたかというと、所属球団がヤクルトでテレビで見る機会が少なく、しかも現役の期間が短かったのと、知名度が上がったのがキャスターになってからだったためである(一応調べろよ。ネット繋がってんだろ)。
1年目は絶対的エースであったダルビッシュ有の渡米もあり、多くの解説者がファイターズの不振を予想する中、吉川光夫らの活躍に救われ就任1年目でのペナント制覇に恵まれた。
余談ではあるが、ファイターズOBである岩本勉氏が「ファイターズ優勝しようもんなら、頭を丸める!!」と発言しており、北海道のローカル局にて断髪式を大々的に中継された。しかし翌2013年はその吉川の絶不調などにみまわれ、チームとしては12年ぶりの最下位に終わるが、シーズン開幕前に任期延長の契約を結んでいたので、解任は免れている。
2014年以降は西川遥輝・中島卓也・岡大海ら若手の成長、ブランドン・レアードらの助っ人外国人の活躍などもあり、連続でAクラス入りを果たしている。
中でも大谷翔平の二刀流育成には絶賛の評を集めており、「大谷翔平のファイターズ入りは、キャスター栗山が居なかったら絶対に有り得なかった」や「大谷翔平のメジャーでの二刀流は栗山英樹の賜物」と言われるほど、篤い師弟関係を築き上げている。また大谷本人も、「栗山監督でなければ日ハムでお世話にならなかったし、投手一本しかできなかった」と公言している。
2021年10月に退任することが球団から発表された。
監督としては、2021年現在の時点で12球団1の長期政権となっている。日本ハムファイターズは金銭面にシビアであるため、主力選手であっても使えないと見るや躊躇なく放出する球団でFAも基本的に引き止めないので、たった1年で全く別のチームへと変化することも多々ある。その中で就任9年でAクラス5回、リーグ優勝2回、日本一1回と輝かしい実績を残している。
発言が気持ち悪いのでも有名で、「気持ち悪い以外は有能」とよく言われている。また就任時disっていたネット界隈の一部もその実績を認めざるを得なくなっている。
その他
名前が縁となり、キャスター時代に北海道栗山町の観光大使を依頼され、現在ではその栗山町へ正式に転居している。
またファイターズ主催のモノとは別に、毎年栗山町にてファイターズ絡みのイベントも行っており、2012年の優勝のときは栗山町独自な優勝パレードを行った。
因みにもし生まれ変われたら、何になりたいですか?と尋ねられると
「もし生まれ変わったら、大谷翔平になりたいです!」とも公言した。