説明
戦績・産駒・長寿記録と、戦後日本競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさから「神馬」とも評される伝説的名馬の1頭。
当時東高西低の競馬界で関西馬として並み居る関東馬を薙ぎ倒し、1964年(昭和39年)の皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制し初代三冠馬セントライトに続く2頭目、そして戦後初のクラシック三冠馬となった。
1965年(昭和40年)には天皇賞(秋)と有馬記念も制し、「五冠馬」とも称される。宝塚記念も勝っており結果としては六冠を達成しているが、当時は八大競走と同列には扱われなかったため六冠馬と言われる事はほぼない。
2021年3月時点で8頭いるクラシック三冠馬の内、他の7頭はいわゆる大手・名門牧場の出身だが、シンザンは松橋牧場という小さな個人経営の牧場出身。
牡馬として体が小さくあまり走らない馬だったため、多くの関係者からは当初「平凡でぼさっとした馬」と評され殆ど期待されず、後にこのシンザンにより日本競馬八大競争を完全制覇する名伯楽・武田文吾氏も素質を見抜けず、デビューから無敗で5連勝を成し遂げたときにようやくその強さに気付かされ、シンザンに自身の非を詫びた程。(自身が手掛けた競走馬で八大競争を完全制覇した調教師は2021年3月時点で武田氏を含めて2人しかいない。)
生来から非常に落ち着いた気性で、人がぶつかっても小石が当たった程度にしか反応せず一日中ラジオをかけられっぱなしにされても気にせず寝ていたらしい。
最終戦績19戦15勝2着4回・連対率100%。デビューから引退まで19連続連対という記録は中央競馬では2021年3月時点において未だ更新されていない大記録。(連続連対数ではビワハヤヒデの15連続、連対率100%に限ればダイワスカーレットの12連続が次点。)
1966年(昭和41年)シーズンから種牡馬となる。
1967年(昭和42年)に4歳(現3歳)馬限定の重賞レースとして「シンザン記念」が設立される
1968年(昭和43年)、京都競馬場に銅像が建てられる。台座には「五冠馬」「神賛」と号されている。
1984年(昭和59年)に無敗のクラシック三冠馬・皇帝シンボリルドルフが生まれるまでの約20年間、日本競馬界では「シンザンを超えろ」というスローガンが掲げられた。
1996年(平成8年)没。満年齢35歳(数え歳で36歳)は当時の日本競走馬の最長寿記録(サラブレッドとしての長寿記録はシャルロットが2014年、中央競馬重賞勝ち馬としてはマイネルダビテが2021年に記録を更新)。
晩年を過ごした谷川牧場に建てられた等身大のシンザン銅像には以下の言葉が刻まれている。
「皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念、日本の競馬史上にはじめて五冠の言葉を残したシンザンよ。シンザンよ、お前が日本のターフに残した蹄跡は余りにも大きく、おそらく消える事は無いだろう、競馬のつづく限り、日高にサラブレッド生産の有る限り、お前の額の星の様に光り輝くことであろう―武田文吾―」
種牡馬成績
主な産駒
母の父としての主な産駒
- ハシハーミット 菊花賞優勝など
父系としては途絶えているが、母系では現在でも偶に見る名前として残っている。当時は外国産種牡馬全盛期ながら関係者の苦心が実り、ノーザンテーストに破られるまで産駒24年連続勝利の記録を保持するなど一定の成績を残した。
また、ばんえい競馬の馬にもシンザンの血を引いた産駒が少数ではあるが走っている。
シンザンについての小話
シンザンにはかの芦毛の怪物オグリキャップのように様々なエピソードがある。
関連書籍や映像作品もあるので興味があれば是非。
『本番』を知る利口な馬
シンザンは調教では走らない馬だったらしい。初めは厩務員が同僚から揶揄われるくらいに走らなかったという。(名前から「新参」などと言われていた。)
レースでも全力を出すのは終盤の勝負所の僅かな時間で、ゴールが近付くと自らスピードを落とし、ゴール後はどの馬よりも早く止まってさっさと引き上げていったという。(そのためレース展開は結構僅差だったり物凄く差をつけたというものが少なく、当時のファンの中には「それほど圧倒的に強い馬だとは思わなかった」という人もいたとか。)
これについて調教師の武田文吾氏は
- 「シンザンは銭のかからない時は走らない。」
- 「ゴール板を知っている馬。騎手が追わずともどこがゴールか知っているから自分で必要なだけ走る。」
- 「利口な馬で、無駄走りをしない馬だった。」
と評した。主戦騎手を務めた栗田勝氏も
- 「こちらの考えていることが電気のように伝わる。こんなに乗りやすい馬はいない」
と語っている他、栗田騎手自身が「ハナ差勝ちでも勝ちは勝ち」という信念の持ち主だったこともあり、馬・騎手の両方があえて「レコード勝ちを狙わない走り」を取っていたことも要因の一つ。(事実栗田騎手は「レコードを取る気ならいくらでも取れる」とも語っている。)
調教では仕上がらないため武田氏はオープン戦を調教に使っており、2着となった4戦のうち3戦は全てオープン戦である。(言ってしまえば手抜きさせているようなもので、競馬評論家の大川慶次郎氏は「レースを調教代わりに使うのはファンや評論家の立場からは腹が立つ。」と語っている。)ちなみにもう1回の2着は京都新聞杯で、この時のシンザンは夏負けを起こし体調不良だった。手抜き・体調不良でも2着に入るあたりが規格外なところである。
シンザン鉄
デビューから4戦目頃、シンザンの後足の脚力が強すぎるせいで前足とぶつかり、蹄が内出血を起こしていることがわかった。競走馬としては致命的ともいえるこの欠陥を克服するため、武田調教師は試行錯誤の末、前後の蹄を守る特注の蹄鉄・通称「シンザン鉄」を開発した。
この蹄鉄、なんと通常の蹄鉄の2倍以上の重量があったという(しかもこの頃の調教用蹄鉄は鉄製で、現代のアルミ合金製よりも重い)。もちろん普段履き用であり、レース時は通常のアルミ合金製のレース用蹄鉄を使用していたが、この重さのせいでシンザンは調教嫌いになったとか、逆に足が鍛えられたとか言われたようである。(元から調教では走らなかったので実際どうだったかは不明だが、よく故障しなかったものである。よほど足腰が強かったのだろう。)
シンザン鉄は通常の蹄鉄に比べて耐久力も低く頻繁な付け替えが必要で装着にも時間がかかったため、シンザンは最後まで蹄鉄の付け替えを嫌がったという。
このシンザン鉄は今も京都競馬場に現物があるので、興味があったら一度見に行ってみるのもいいかもしれない。
二本足の馬
シンザンの腰の強さを証明するエピソード。
ある日、いつものように乗り運動をさせるため、武田調教師が息子の博氏にシンザンを厩舎の周りで歩かせるように指示。博氏は早速シンザンに跨り歩き出そうとしたところ、シンザンがいきなり後ろ足二本で立ち上がった。見ていた関係者は全員唖然。博氏は事故を起こさないようにとにかくシンザンに必死にしがみつくことしかできず、そのままシンザンは博氏がしがみついたまま器用に二本足で50mも歩き、その後平然と四本足に戻して歩いて行った。さすがの武田調教師も「歩けと言ったが二本足で歩けとは言ってない」と半ば呆れていたという。
二本足で立つこと自体は腰の強い馬が稀に見せることだが、大抵は自重に耐え切れずすぐにやめてしまうものである。人を乗せたまま50mも歩いたのは恐らくシンザンだけだろう。この二本足で立つ行為はシンザンの得意技だったらしく種牡馬時代にもよく見せていたようで、当時の競馬雑誌にも掲載されている。
鉈の切れ味
シンザンの走りを表す最も有名な言葉。武田調教師の語った言葉で、その分厚くも鋭い脚色を自身がかつて手掛けた二冠馬コダマと比較し、
- 「コダマは剃刀(カミソリ)、シンザンは鉈(ナタ)の切れ味。ただしシンザンの鉈はヒゲも剃れる鉈である。」
と評した。
シンザンが消えた
別名「シンザンストレート」。五冠のかかった有馬記念の最終盤、レース先頭を行く加賀武見騎手とその馬ミハルカスが、シンザンを荒れた内馬場へ突っ込ませようと大外を通るルートを取った際、シンザンは更にその外を通るルートを走って交わしゴールした。この時シンザンが大外に寄りすぎて外埒(コースの外側の柵)に集まっていた観衆に隠れてしまい、カメラからシンザンが消えた。(実況も一瞬絶句している。)
このレース、シンザン側は
- 武田調教師と栗田騎手が有馬記念のローテを巡って対立し最終的に栗田騎手が降ろされ(正確には病院に入院して降りざるを得ず)シンザンに初乗りの松本善登騎手が騎乗
- 加えてシンザンは中山競馬場が初だったために前レースのOPに出走し連闘
- 更に前日の雨で内馬場が不良でシンザンは不良馬場が不得手
- おまけに上述の加賀武見騎手とミハルカスはシンザンに2度敗れていてリベンジに燃えている
という不安要素満載の状態だった。それらの不安要素、加賀騎手とミハルカスの執念の奇策すらも打ち破ったこのレースは「シンザンが消えたレース」として伝説となっている。
競走馬擬人化の題材としてのシンザン
内国産馬と言う事を反映してか悪く言えばごっついオッサン、よく言えば侍風にされるようである。また、『馬なり1ハロン劇場』では和服姿のご老公として描かれ、呂律が回らず、よく馬の名前を間違えること多々である。(例:「シンボリルロルフ」、「ナリタブライヤン」、「デープインパクト」、「オルヘーブル」)
なお、2021年3月現在、ウマ娘化はされておらず、今後実装されるかどうかも不明。
関連項目
シンザン記念 1967年(昭和42年)創設のJRAの重賞競走。