歩隲
ほしつ
歩隲とは、三国時代の呉の政治家。字は字は子山。
概要
徐州臨淮郡淮陰県の人。子は歩協・歩闡。孫は歩璣・歩璿。同族に歩練師(歩夫人)。
中央が戦乱で乱れると江東へ逃れて移った。
孫権が討虜将軍となり将軍府を開府すると、歩騭は孫権に仕える。
210年、新設された鄱陽太守に任命された後、交州の呉巨と士燮の豪族の征伐に向かう。
呉巨は降伏したが、異心を抱いていることを見抜き、会談の席上で呉巨を斬り殺す。それを知った士燮一族を服従し、呉の南方進出の足がかりを作った。その後、交州刺史となり、水軍を率いて交州の各地を転戦し、反乱を平定した。
220年、刺史の職を呂岱と交代することになり、新たな任地である長沙に向かった。この頃、呉は夷陵で侵攻してきた蜀と合戦(医療の戦い)が起きており、武陵の蛮族もそれに呼応して不穏な動向を示しつつあったため、そちらの平定を行っていた。
孫権即位後は驃騎将軍、陸遜に代わって西陵都督に就任。
陸遜の死後、丞相となったが、翌年に死去する。
三国志演義の活躍
『三国志演義』では、謀略家の一面を見せている。
赤壁の戦いの際、降伏派の家臣の一人として登場するが、諸葛亮に論破されている。
曹操が孫権に荊州の関羽を連合で攻撃することを要請した。当時、孫権は関羽に使者を出して自分の息子と関羽の娘との婚約を促したが、見下される形で拒否されたことに激怒していたため、すぐに乗り出した。だが、軍議で歩騭は「曹操は劉備の矛先を我が国に振り向けようとしているから、曹操には樊城の曹仁に関羽を攻撃するよう命令して戦わせて、その隙に荊州を奪いましょう」と進言した。孫権はこの策を受け入れた。結局は計画通り、荊州を奪うことが出来た。
また、夷陵の戦いのときは、陸遜の抜擢を孫権に勧める闞沢の提案に対し、顧雍とともに陸遜の才能を過小評価し、その登用に反対している。