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現在の大阪府大阪市中央区(旧摂津国東成郡)に築かれた。かつては「大坂」と表記されたため、歴史的用語としては「大坂城」となる。

概要・歴史

現在の大阪城のある場所は戦国時代には浄土真宗本願寺教団の本山である石山本願寺が築かれていた。とはいいながら戦国大名に匹敵する勢力をもった同教団の本拠にふさわしく石垣や堀などの要害が造営され、実質的には「城」であった。事実、織田信長による包囲戦にも長期間耐えている。

本願寺教団が同地を去った後、1583年に羽柴秀吉豊臣秀吉)が新たな本拠地としての大坂城の築城を開始した。豊臣政権下では全国に号令する中枢として機能したが関ヶ原の合戦後徳川家康が実権を掌握し江戸幕府を開くと、一大名としての豊臣秀頼の居城となった。1615年、大坂夏の陣で落城、豊臣本家滅亡。その後江戸幕府により豊臣大坂城を完全に覆い隠すように新たな大坂城が築城された。1665年に落雷により徳川大坂城の天守が焼失。以後明治維新まで天守のない城として幕府の西国支配の拠点となった。

しかし、戊辰戦争では伏見の戦いでの敗戦後に徳川慶喜が軍を立て直し城に篭ったはずだったが、夜逃げ同然に江戸城に帰還したことで、戦争の趨勢が明らかになることになり、この後は転がり落ちるように衰退し、豊臣に続いて徳川までも滅亡の生き証人となってしまう。

明治維新後、1931年(昭和6年)に当時の大阪市長關一の発案により市民からの募金などにより鉄筋コンクリート製の天守(復興天守)が再建された。豊臣大坂城の天守と徳川大坂城の天守からそれぞれ意匠を取り込んでいる。

昭和の復興天守は第二次世界大戦空襲でも焼失を免れ、現在歴代最長寿の天守となった。1997年平成9年)、復興天守そのものが国の登録有形文化財に登録された。

創作作品における大阪城

よく燃えされ、破壊される場面が多い城である。前者は大坂夏の陣を描いた作品であれば当然史実通りの結果であるが、後者は昭和中期のゴジラシリーズのゴジラアンギラスとの戦いの最中と、初代ウルトラマンゴモラで有名ある。

ちなみに前田日明は子供の頃にゴモラ戦の放送のあった翌日、大阪城に行って壊されてないことに疑問を抱き、そこにいた工事現場のおっちゃんにたずねたら「おっちゃんらが徹夜で直してん」と答えたという。

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大阪城の編集履歴2012/03/03 17:45:36 版