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MiG-15の編集履歴

2012-03-10 21:31:46 バージョン

MiG-15

みぐじゅうご

第二次大戦後、ソビエトが開発した戦闘機。ドイツから接収した研究資料や技術者を投入して設計され、エンジンはイギリスから輸入したものを改良して搭載している。迎撃に重点をおいており、上昇力や火力に優れている。Ta-183との類似性が指摘されるが、実際には全くの別物である。

概要

ソビエトの開発した戦闘機

最初から敵機の迎撃に絞った設計がなされ、上昇力と一撃あたりの攻撃力に優れる。

設計にはドイツから接収した技術を応用しており、当時最高の戦闘機である。

同じくドイツの技術を応用したF-86 と互角の勝負を繰り広げた。

欠点は音速を超えられないことであり、問題解決にはMiG-17の登場を待たねばならなかった。


本来はこちらが表記違い。登録されているイラスト等はMIG-15にて。


はじまりはイギリス製

第二次大戦前、ソビエトも来たるべきジェット機の時代を見据え、

ジェットエンジン「RD-1」の開発を進めていた。

しかし、そのさなかに「ドイツ・ソ連戦争」が勃発して開発作業は棚上げとなった。


1944年、ジェットエンジン開発計画は再始動。

その後、戦争で獲得したドイツの技術者や研究資料も吸収し、1946年にはMiG-9戦闘機が初飛行した。

しかし、それは満足する性能には至らなかった。

満足する性能のためには、より推力の大きい新型エンジンが必要だったのだ。


そこで、ソビエトイギリスに当時最高のエンジン「ニーン」と「ダーヴェント」の売却を打診する。

交渉はソビエトが食糧を輸出し、代わりにエンジンを購入することでまとまった。

こうして、ソビエトは最高のエンジンを手に入れる事となったのである。


ドイツの科学力とソビエトの工業力

イギリスからエンジンを輸入したソビエトは、さっそくコピー生産に取り組んだ。

ミグ設計局が選んだのは「ニーン」エンジンを使った戦闘機だった。


コードネーム「I-310」開発計画は、正式な指示の出る前に始まっていた。

設計局内部での名称は「製品(イズデーリャ)S」。

ドイツから押収した技術者や研究資料を最大限に活用し、

後退翼やT字尾翼といった最先端の技術をふんだんに盛り込んだ。

エンジンにも改良を加え、

「ニーン」の2割増しの出力となった新型の国産エンジンに換装してMiG-15bisへと発展した。

名実ともに、当時の最高・最先端の戦闘機である。


1947年12月30日、I-310は初飛行に成功。

翌年夏、「MiG-15」の名称が与えられ、同時に正式な生産命令が下る。

1949年には「数あるジェット戦闘機の中から、生産をMiG-15一本に絞る」との指示が下された。

かくして9つの工場がMiG-15を生産する運びとなり、

MiG-15はソビエトを代表する戦闘機になったのだ。


生産数は本国によるものだけでも11073機ともいわれ、

これは世界一多く生産されたジェット戦闘機である。

ちなみにソビエト以外にもチェコポーランドでも生産され、

そちらも合わせると生産数は17412機にも上るといわれている。


MiG-15、朝鮮戦争へ。

高性能を発揮する機会は早くもやってきた。

1950年10月末、北朝鮮軍に反転攻勢を挑んだ国連軍は中国義勇軍に遭遇する。

その中でも最も手ごわい強敵、それがMiG-15だったのである。


当時、国連軍にはアメリカ空軍のF-80やF-84、アメリカ海軍のF-9F、

イギリスではミーティアのようなジェット戦闘機を有していた。

しかし、これらはすべて直線翼であり、第二次大戦の戦闘機から発達しきれていないものであった。

当時の最新鋭だったにもかかわらず、MiG-15の登場ですべてが一晩にして時代遅れとなった。


小型・軽量で上昇力に優れ、また大きな火力を備えるMiG-15は恐怖の的となった。

太平洋戦争では『空の要塞』として知られたB-29でさえ、その例外ではなかった。

むしろ、爆撃機の迎撃が本来の用途だったのだ。

1951年4月12日、49機のB-29が鴨緑江(ヤールーガン)にかかる鉄橋に空襲をかけた。

52機のF-84やF-86に護衛されていたにもかかわらず、

3機が撃墜され、7機が大きな被害を受けるという大損害を出している。


太平洋戦争のように基地が遠かったら、被害を受けた7機は全て墜落していただろう。

そうなると損耗率は20%(10機)にのぼり、以降の作戦行動は大きく制約を受けたと考えられる。

実際、以降は国連軍の爆撃機は爆撃投下時の高度を上げたり、

夜間のように迎撃しにくい時間帯を狙って空襲を掛ける事にしている。

しかし、それは爆撃の成功率や命中率を犠牲にするという事でもあった。


MiG-15の脅威は『空襲の被害を抑える』という結果をも呼びこんだ。

敵を撃墜するだけが迎撃の意義ではない。

迎撃されることを警戒し、出撃を敵に躊躇させる事も迎撃の意義なのだ。

このような結果をもたらしたMiG-15は、成功した迎撃戦闘機であると言えるだろう。


ミグの恐怖

朝鮮戦争が1953年に停戦になるまでMiG-15の存在は脅威とみなされ続けた。

いくらF-86であっても、『実際の勝敗はパイロットの腕しだい』と評された程の性能なのである。

性能に多少の長短こそあっても、総合的には互角だったのだ。


しかし、MiG-15には『音速に近い速度になると操縦が困難になる』という不具合があった。

急上昇では逃げられなくても、急降下で音速を超えればF-86は逃げられたのだ。

このような弱点を修正し、音速を超えられるようになるためには続くMiG-17を待たねばならない。


また、対爆撃機用に大口径の機銃を搭載していたことも、格闘戦で不利に働いた点である。

とくに37mm機銃は弾丸が重く、距離が離れると当たりにくいのだ。

発射速度も速くはなく、対戦闘機用の武装としては使い難かった。

むしろそれは同じく搭載された23㎜機銃の出番だった。

しかし搭載できる弾数は少なめであり、やはり戦闘機相手は不利だった。

(37㎜は40発、23㎜は80発を2連装。合計200発を搭載)

それを補ったのはエンジンのパワーであり、空戦では有利な位置を占めることで弾数の不利を補った。


しかしそれはF-86など、対等に戦える戦闘機が相手をした場合である。

旧式のレシプロ機にとって恐怖の的である事に変わりはないのだ。

とくにジェットエンジンによるパワーの差は付きまとい、

基本的には一方的に攻撃される展開に変わりは無かった。


『実際の勝敗はパイロットの腕しだい』

このコメントを残したのはチャック・イエーガーである。

当時、空軍のテスト部門で働いていたイエーガーは、

テスト部長のアルバート・ボイド少将の下でMiG-15のテスト飛行を担当した。

これは1953年9月に亡命した北朝鮮パイロットが乗ってきたもので、

イエーガーは飛行テストを命じられたのだ。

MiG-15は未知の機材であり、その性能の限界を確かめるのは困難な作業だった。

なにしろ、どんなクセや不具合があるのか解らないのだ。

本人も自伝の中で『一番大変な経験だった』と語るくらいである。

ただし、通常の飛行ならそうでも無かったようで、こちらは楽にこなしていたと伝えられる。

この中でF-86とMiG-15と戦ったら、どちらが強いか?』と質問され、

見出しのように返答したのだ。


この後の模擬戦でイエーガーはMiG-15でF-86に勝利し、

乗機を交替してF-86に搭乗してもMiG-15に勝利したという。

本当にパイロット次第だったのだ。


初めてのジェット戦闘機として

このMiG-15はソビエトで初めて、大規模に生産されたジェット戦闘機である。

なので、パイロットにジェット機の操縦を覚えさせるために練習機型も開発された。


それがUTI-MiG15である。

(MiG-15UTIとも)

教官席を後方に追加し、3門の機銃が練習用の12.7㎜機銃に変わった以外は通常の機と変わりない。

当然、例の『音速に近づくと操縦困難』という欠点もそのままである。

MiG-15は『扱いやすい戦闘機』というわけでは無い。

むしろ『扱いにくい戦闘機に慣れるための練習機』なのだ。


そういう訳で、全生産数の中でも3分の1を練習機型が占める事になったのである。

これはアメリカのT-33(TF-80)にも近い位置づけと言える。


こうしてUTI-MiG-15は共産圏の標準的な練習機となった。

もちろん『大量に生産されたので安価である』という点も助けになった事は言うまでもない。

生産数はソビエトで3433機、チェコでは2013機と言われている。


偵察機・戦闘爆撃機について

その後、MiG-15は偵察機にも改造されている。

とは言っても、改造は23㎜機銃2門を外したスペースに偵察カメラ1基を積み込んだ程度であり、

偵察機としての能力は「無いよりマシ」という程度である。


この機に限らないことだが、ソビエト偵察機(戦術偵察機)にあまり興味が無かったようである。

このMiG-15の偵察機型であるMiG-15Rにしても、カメラが1基だけなので能力的にはかなり見劣りがする。

後継となったMiG-21Rにしても、偵察装備はポッド形式でこれも限定的である。

(それでも機材の種類が増えて能力は向上したが)

本格的な戦術偵察機はMiG-25偵察機が搭乗するまで待たねばならない。


また、迎撃戦闘機として能力不足となってきたMiG-15を戦闘爆撃機に改造する試みも行われた。

戦闘機としてはダメでも、爆弾を落として機銃掃射するなら十分だと考えられたのだ。

だが、ここで迎撃に絞った設計が裏目に出た。

機外搭載量が少なすぎるのである。


増漕を降ろし、代わりに爆弾を積むのが精々だったのだ。

そして増漕を降ろすと、今度は航続距離が短くなって使い道が限られてしまう。

そういう訳で戦闘爆撃機としてはあまり活躍せず、後継のMiG-17に道を譲ったのである。


MiG-15とTa-183について

・同じナチス・ドイツの技術の利用である

・後退翼やT字尾翼を採用している

・火力と上昇力に優れた迎撃戦闘機である

以上のような共通点により、MiG-15はTa-183のコピーと見做されることが多い。


しかし実際には『似ているだけ』であり、共通性は航空歴史家Yefim Gordon氏にも否定されている。

大戦終結時、Ta-183は初飛行も済ませていない状態だった。

そのうえ、生産していたフォッケウルフ社の工場を占領したのはイギリス軍なのだ。

たとえソビエトが研究者を吸収していたとしても、これではすぐに有効な研究は望めない。

(試作機と研究チームが別々になってしまった)


また、そもそも機体の寸法が違うのだ。

エンジンも別であり、武装の配置も違っている。

Ta-183では、空気取り入れ口の左右に機銃を配置する予定だったようだが、

MiG-15は機首下にガンパックのようにまとめて配置している。


武装は戦闘機の要である。

いくら同じ目的の戦闘機であっても、

機銃の重量や必要になる補強が違えば、機体の重量バランスも変わる。

以上により、『機体設計が全くの別物になった』と推測するのは適当だろう。


このように相違点は数多く、共通点は『似ている』という事だけである。

MiG-15とTa-183は別物であると言えるのではないだろうか。

Hückebein

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